改めて思う「主任ってさ」 | 公務員 島田正樹 〜仕事と私事と志事と〜

公務員 島田正樹 〜仕事と私事と志事と〜

仕事も家族・友人との私事も楽しみながら、魂を燃やして挑む“志事”で社会を変えていきたい! 地方公務員として働きながら、NPO活動、講演、執筆、ワークショップデザイナーなどに取り組む“公務員ポートフォリオワーカー”として活動しています。

おはようございます。

昨日はさいたま市内で研修だったため、夕焼けとともに帰宅できた島田です。平日にもかかわらず子どもたちと食事をし、20時に寝かしつけ、クーラーの効いた寝室から23時に生還いたしました。



さて、昨日は新任主任研修ということで、先週のコーチング/キャリアデザインに関するグループ研修に引き続き、今度は講堂での集合研修を受講してきました。(先週の研修のことは 7月4日 主任研修を受けてきました! 参照)


今回は市の各種計画・戦略などについて、それらを担当する
市役所の頭脳集団から講義を受ける1日間。


えー、研修の内容や感想は 割愛 させていただきます。


ただ、これまで10年間にわたって庁内の様々な主任の職員と接し、昨年7月1日に主任になってから1年間が過ぎて、そして、今回の研修を受講し、思ったこと、それは

主任って軽い

ということ。



主任というものを、役所というのはあまり大切に扱っていないのかも、というのが私の実感です。

それは決して、「主任になったんだから大切に扱ってよ」「主任にはもっと責任と果実を」ということでは無く、

主事が主任になる
という制度の扱いが軽い

ということ。


ちなみに制度上の事実関係をお示ししておきますと、私の所属するさいたま市役所は、いわゆる行政事務で入庁すると、最初は主事から始まり、初めて職位が上がるのが主任です。(技術系は主事を技師と読み替えますが、主任になるのは同じ)


それでは、主任というものが軽いと考える理由やそれに対する私なりの考えを以下では、3点に分けて少し整理してみました。


1.一般的に実力は主事と変わらない
私の経験則上、主任であるから主事よりも能力が高いということは、一般的原則と言えるほど一般性がありません

これって個人個人で能力差があるのだから、一般性が無くて当たり前でしょうか?
でも、それが当たり前だとしたら、主事を主任にして区別する意味ってなんでしょうか?

個人の能力差で主事でも主査(主任の上)並みの実力を持つ職員もいますし、その逆も然りです。その点は否定しません。むしろ事実として厳然とそこに発現する現象です。

でも、その現象こそが一般的であって、主事より主任のほうが能力が高いという現象の方に一般性が認められないとしたら、主任という職位を主事と主査の間に設ける意味はありません。主任なんだから(時に例外もあるけれど)、主事より能力が高くて当然だよね、という状況にならない限り、入庁から主査になるまで15~20年間職位が上がらないことに対する、ガス抜き以上の意味が無いと言わざるを得ません。


2.主任に期待していない
きっと1.との表裏の関係なんだと思います。「主任なんだから相応の実力があってしかるべきだよね、あなた個人の実力はちょっとまだ分からないけど」という状況であって、初めて係長や課長は主任に、そのもたらす成果に対して期待することができます。
でも、現状は、主任が配属されると配属後ちょっと様子を見て、「あ、こいつは大丈夫だな」と思ってもらって、初めてキチンと期待してもらうのではないでしょうか。

違いが分かりますか?

前者は主任に対する期待ですが、後者は既に仮の評価を終えた個人に対する期待です。

でも、主査が配属されたときは、もっと主査であることに対して(主査なりの)期待をすると思うんです。

主任が配属されたときの、主任なりの期待って、全く想像できないのは私の経験上の欠陥でしょうか?


3.主任を育てない
1.や2.の原因であり、同時に結果でもあるかもしれません。そして、今回の主任研修を受講して分かりました。私が所属するさいたま市役所は、主任を育てるということに、あまり熱心ではありません。

頃合を見て主事を主任に引き上げる、主任になる職員に辞令を出す、主任を対象とした研修をする、主任の給与を上げる、主任になった職員は職員録で「主任」と記載する。

こういうことには熱心なんです、組織というのは。
でも、上記の一つも主任を「育てる」という意味は持ちません

主事を主任にする方法は2つあります。

一つは主任が務まる主事を主任にすること。
もう一つは主事から主任になった職員を、主任が務まるようにトレーニングすること。

さいたま市役所の主任は試験による昇任ではありませんし、実力のある職員から主任になっているという事実は観測されないので、恐らく、そこそこの年次になったら昇任させている制度と推察されます。

ということは、2つの方法のうち、この組織が採るべきは後者「主任が務まるようにトレーニングすること」です。主任が務まらないかもしれない職員も含めて、年次でゴッソリ主任に引き上げたのなら、そのトレーニングにより「務まる職員」にする責任が組織にはあります。

そして、その一つの機会が、今回私が受講した「主任研修」であるべきです。

しかしながら、実態は・・・口をつぐみたくなるものです。

もちろん、今回の主任研修“だけ”で「務まる職員」にする必要はありません。職場でのOJTなどもあって(むしろそちらがメインで?)主任は造られるのだろうと思います。

ということは、職場でのOJTではさぞかし、主事を主任にするノウハウが!?

......orz

書き続けるのが辛くなってきました。



さて、1.~3.を総合すると、つまるところ、主任という制度がなくても組織は動きますし(というかパフォーマンスは変わらない)、だからこそ組織自体が主任という制度をあまり大切に扱わなくても済んでいるのかもしれません。

だから、主任という制度をもっと大切にして、組織のパフォーマンス向上に活かすべきだ!

と申し上げるつもりも、実はありません。

今のような状況で済んでいるのは、ある意味でさいたま市役所が置かれた現状が穏やかで恵まれていることの証左でもあります。

ただし、もし主任という制度を、組織において不可欠であり組織のパフォーマンス向上に資するべきだ、と評価するのであれば、そう評価する者はもっと為すべきことがあるのではないでしょうか?


皆様はいかがお考えでしょうか。