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序章では、なぜ年収を公表しようと思ったか葛藤と覚悟を書きました。
いよいよここから、年収を手放して起業するまでを書いていきます。



私はいつの頃からか、将来は自分で事業をするだろうなという
おぼろげながらの思いがあったんです。たぶん小学生とかそれくらいから。




だから大学の専攻も、卒業時に建築士の受験資格が付与される学部を選び、
建築は向いていないと気づいて、大学卒業後に進路変更したときも
米国公認会計士の資格を取得し、自分で何かをできるような選択をしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2005年に中途採用で大きな組織に所属したことで、
世界の広さを知り、自分の発言の責任の大きさを学び、
日々目の前のことに取り組む必死な生活がスタート。



私は親会社の本社に入社したので、
自分が発信する文書やメールが、全工場や事業所に影響したり、
国内や海外の関連会社の仕事にダイレクトにインパクトがあると気づいたときに、
ものすごく怖くなったことを思い出します。



私自身がそんな大きな影響を与える人物でなくも
親会社の本社という役割の一部を担ったときには、
若いからとか、経験がないからという言い訳は一切通用しませんから。




もともと完璧な仕事をするのが私の性格ですが、
親会社の本社で仕事をすることで、私の完璧主義は加速したと思います。
「てへ
べー間違ってたからさっきの取りやめ」なんて言えないですよね。



まあ、そんな感じで完璧主義でとにかく必死で働いた結果
入社から3年たった2008年に頭と体が強制終了します。
(その時の経緯はこちら→ 
私のこと 第6話 ~8話を読んでね



強制終了から1年たってもまだ仕事中に体に空洞があるようなしんどさが抜けなかったときに、いよいよ会社を辞めないといけないかも~(涙)と思いました。



サラリーマンをするなら勤めていた会社以外に考えられないので
転職という選択肢はそもそもなかったんです。だから辞めるなら何か自分でしないと。でも、何もできることがない。。。というのが当時の状況。




貯金も300万くらいしかなかった。
だいたい、イスに座ってるのすら辛い人が起業なんかできるわけないです。
今冷静に考えると。




なので、2009年からは自分を癒すことを学びながら仕事をしていました。
その年、初めて私が責任を持つ部署を新設してもらえることになり、
企画を主に担当する部門の係責任者になりました。



その時に係の大義名分として書いた絵がこれ。
係の仕事として、部門全体をこういう世界にしたいと。
当時は、この絵とはほど遠い感じだったのです。。。

 

 

 

 

 


この絵を「いいね。いいね。」と一緒になってアイデアをだしてくださった上司の懐の深さがありがたかったです。この絵、理解できる人とできない人がいるから。



仕事は2009年から新たな動きが始まり、プロジェクトの中心メンバーに入っていたので、体はしんどいけど、物事が動いていく面白さ、部署が会社の中で必要とされている充実感が私を動かしていました。



2010年には係責任者から課責任者になり、
残業時間を気にせずにいくらでも仕事ができるようになりました。



いくらでもできるというのがクセモノで、また突っ走りすぎてバタンというのを繰り返しながら、仕事の合間に健康管理室にお世話になるのは変わらなかったです。。。



そんな私に変化がでるのが翌年の2011年。


つづく



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