私はワリと好戦的な性格をしていると思います。



私が怒ってやり返しているのを「そんな非生産的なことをしても意味がない」というようなことを言われたりしますが、政策的にやっているところもあるので改めようとも思っていません。


たとえ勝ち目がなくても、何ら得るモノがなかったとしても、やり返すことは重要だと考えるからです。


その考えの元となっている歴史のエピソードをご紹介しましょう。




スイスと言えば永世中立国として有名ですが、同時に「国民皆兵制」をもつ軍事国家としても有名です。スイスの民家には平気で重火器が備え付けられており、国家の有事となれば国民すべてが兵士となるべく制度が整えられています。


スイスは西ヨーロッパの中央に位置し、それぞれの国を行き交う戦略・戦術上の重要な場所であるためにヨーロッパで戦火があがるたびに、幾度となく外国の勢力に狙われてきました。


そんなスイスを脅かした勢力の中でもっとも強力だったのが第二次世界大戦の時のヒトラー率いるナチス・ドイツの存在です。





第一次世界大戦終了後、ドイツに多大な賠償金を課したベルサイユ体制の脱却を訴え、大規模な公共事業と軍備増強で国内の失業率や経済を、ドイツ人の自信と誇りを取り戻させたヒトラーは周辺諸国との軋轢を、ついに戦争という形で解決しようと試みます。


政界的な軍縮の流れの中にあった中、唯一軍事費を増大させていたナチス・ドイツに連合国はまったく太刀打ちできず、大国・フランスでさえ降伏、首都・パリにドイツ軍が無血入城するなどドイツは快進撃を見せます。


また、スイスと同じように「中立」を宣言していたベルギー、ルクセンブルグ、またオランダなどの低地国はあっという間に占領、ドイツはまさに西ヨーロッパを席巻します。(このときの反省からかベルギー・ルクセンブルグは戦後、永世中立国であることを放棄します)




しかし、スイスだけは中立を守りきりました。何度も言いますが、当時の国力や軍事力ではナチス・ドイツが圧倒していたにもかかわらず、です。


ドイツにとってスイスはただの隣国というだけではなく、絶対の同盟国であるイタリアとの重要な連絡経路にあたり、その戦略上の価値ははかりしれないほど大きかったのですが、それでもドイツはその野望を断念せざる得ませんでした。



それはスイスの将軍ギザンの「ハリネズミ戦略」が奏功したからです。



事実上のスイスの最高指導者になったギザンはドイツの快進撃に「ドイツ側で参戦すべし」などと揺れる国内を「スイスの自由と独立を守ってきた先人の精神を継いで国を守っていくべき」と説得し、国論を「武装中立」で統一します。


さらに43万人もの民兵を組織、史上初めて1万5千人もの女性兵士も動員するなど国防を強化、いざというときは都市に火を放ち平野部を放棄、市内の交通網を破壊した上で要塞化してあったアルプス山脈にこもり徹底抗戦をもくろむという作戦をたてていました。


確かにナチスドイツが本気でスイスを攻略しようと思えば可能だったかもしれません。しかし、そのときまっているのは焦土と化した国土と、国民のほとんどが戦死するという惨状、しかも勝ったとは言えドイツが受けるダメージも相当なものになったでしょう。



人や組織の行動は「何かメリットを求めて」行うものです。ギザンは相手に与えるデメリットを限界まで高め、そして自らを傷つけることを覚悟した上で相手のメリットを可能な限り減じることでドイツの侵入の意図をくじきました。







これと似たようなことはちょうど地球の裏側、日本でも起こっています。





「カミカゼ」という名で人が乗った飛行機が爆弾を抱いて突っ込んでくる。ガダルカナル、サイパン、硫黄島、そして沖縄本島と、各地で日本軍は勝ち目はなくとも死にものぐるいで反抗してくる。


「このまま日本本土に攻め込めば、どれぐらいの被害が出るか」


5月に日本軍の沖縄守備隊が全滅するのですが、その後数ヶ月、アメリカは本土侵攻を躊躇せざる得ませんでした。




他にも関ヶ原の合戦の際、西軍(石田三成方)に参戦していた島津義弘は敗色が濃厚になるまで何もせず、敗戦が決まってからなんと徳川軍のほぼ中央を強行突破して薩摩に帰還するというとんでもない撤退戦を見せます。


追撃にあたった家康の重臣・井伊直政はこのときの反撃で重傷を負い、それがもとで死に至ったというほど島津の反抗はすさまじく、主君を脱出させるため次々と追ってを阻んで討ち死にするその姿に「薩摩隼人、恐るべし」という強烈な印象を徳川家に与えます。


結果、薩摩・島津家は関ヶ原で徹底的に徳川に反抗したにも関わらず領土を一寸たりとも減らされることはありませんでした。中立をきめこみ、関ヶ原では戦わず逃走した長州・毛利家が大幅に領土を減らされたことを考えると異例と思わざる得ません。(この薩摩・島津と長州・毛利に対する仕置きはそのまま幕末の両藩の行動につながってくる)




このように


「たとえ勝ち目がなくても 徹底的に反抗する姿勢を見せれば
                      強者に侵攻を躊躇させることができる」



というのは歴史が教えてくれる教訓です。



「そんなことをして、非生産的な」という向きももっともですが、

「非生産的どころか、破壊的であるからこそ、相手は躊躇する」

という私の信念が変わらない限りは、私の性格も変わらないのだろうなと思います。



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