佐藤嘉洋オフィシャルブログ「明るく生こまい」Powered by Ameba
↑佐藤孝也のミドルキックは割と容赦なかった。
エキシビションなのに……。
こちらの写真は格闘技カメラマンの佐藤毅氏の写真を勝手に拝借。
訴えるなら訴えてくれ。
スタバのコーヒーをごちそうするぜ。
もちろん私のおかわり券を使ってね。

(引き続き敬称略のままいくぜ。ファン目線で語りたいからね。気分悪い人は今すぐシャットダウンしてくれよな)

第1話「立場のない人間に、一番与えられたいモノ
第2話「今までも、今も、これからも
第3話「苦しみの向こうの境地
第4話「同じ志を見つめたDNA
第5話「妥協と拘りの境界線
最終話「レジェンドたちから受け取ったモノ

エキシビションは続く。
第3試合が佐藤孝也vs北岡孝人である。
佐藤孝也は先ほども少し語ったように、
私佐藤嘉洋の直近の先輩である。
立嶋をKOした姿を目の当たりにして、私に
「プロになりたい」
と明確に思わせてくれた人である。

北岡は往年のK-1マニアなら
名前を聞いたことがあるのではないだろうか。
村浜TAKE-HEROとK-1で戦ったこともある。
もちろん、地元のシュートボクシング興行には常連で、
彼の試合もよく見ていた。

佐藤孝也の華麗な技の数々は現役時代そのままだった。
今でもミドルキックのキレは相当なもの。
私も昔、佐藤孝也の綺麗なフォームを真似てみようとしたが、
到底真似することができなかった。
ああそうさ、みんな知っての通り、今もできない。
「天才」だとか「超新星」だとか「ほうき星」とかいう
キャッチフレーズが当時の格闘技専門誌を飾っていた。

佐藤孝也といえば、無謀とまで思えたムエタイの怪物たちへの挑戦が印象的だ。
ソンチャイプロモーションのスーパースターたちとの対戦である。
パノントワレック、クルーグチャイ、クンピニット、ラムナムムーンとの対戦は、負けはしたもののキックファンに大きな衝撃を与えた。

1001のローキック」準レギュラーのパイパニくんとキックの話をすると、
クンピニットを生で見たときの恐ろしさを、
口角泡を飛ばす勢いでいつもまくしたててくる。
「ミドルで佐藤さんがロープまで吹っ飛んでいったとき、チビりそうになった!」

ひとつはっきりと断っておこう。
佐藤孝也が戦ってきた上記にあげたタイ人は、
現在のムエタイのランカーたちとはレベルが一段違う。
最近だと梅野源治の戦ったウティデートとゲーオ。
また、大和哲也の戦ったセーンチャイやジョムトーン、サゲッダーオと同じような格だと考えてほしい。

当時佐藤孝也が在籍していたニュージャパンキックボクシング連盟は、
こうした熾烈なマッチメイクが連続して行われた。
そこから体を背けずに怪物たちに立ち向かっていった諸先輩方(完全なる私見で選出すると、佐藤孝也、松浦信次、青葉繁、安川賢、佐々木功輔、中島稔倫、小野瀬邦英、桜井洋平)のおかげで、ムエタイに肉薄する現在の選手たちを生み出したのではないだろうか。
ただし、たった一人だけ無謀なマッチメイクではなく、
「勝負になる」と期待させた選手がいた。
それが鈴木秀明である。

しかしながら、鈴木も佐藤孝也の在籍した名古屋JKファクトリーの後輩だ。
その佐藤の背中を見ていたからこそ、
鈴木秀明は90年代で最もムエタイに肉薄したキックボクサーになれたはずなのだ。

私も佐藤孝也や鈴木秀明のようにムエタイに愚直に挑んでいった先輩方の背中を見ていたからこそ、
ピークを過ぎていたとはいえルンピニースタジアム王者のガオランを相手に、
世界タイトルを防衛できたのだと信じている。
2003年8月17日、私が22歳のときのことだ。
名古屋JKファクトリーの小森次郎会長、
そして佐藤孝也、
鈴木秀明が試行錯誤して挑戦した結果、
とうとう念願を果たした瞬間だった。
本当に謙遜でもなんでもなく、
皆の勝利だと思った。

血は繋がっていなくとも、
同じ志を見つめたDNAは
受け継がれていくのだ。

ただし、ウェルター級以上でムエタイに勝利しても、
周りの関係者から
「結局中量級のムエタイに勝ったってねえ……」
と思われているのも私は知っていた。
ひょっとすると身内からも揶揄されていたかもしれない。
自分のそういった葛藤や、
ムエタイ選手たちのリング上での態度などを見て、
この頃から私はムエタイが嫌いになっていった。

第5話「妥協と拘りの境界線」に続く

明るく生こまい
佐藤嘉洋