今回は、前々回触れた「あずさ」の一大転機について取り上げます。

その「一大転機」は、昭和48(1973)年10月1日のダイヤ改正の際に訪れました。具体的な内容は以下のとおりです。

① それまでの「とき」との共通運用をやめ、「あずさ」編成の所属を「あさま」と同じ長野としたこと
② それにより「あずさ」から食堂車が消えたこと
③ 新系列の車両が「あずさ」の運用に進出してきたこと
④ 「あずさ」に自由席を設け、「エル特急」の指定を受けたこと

順次触れていこうと思います。

まず①について。
この改正に伴い、東京-上野間の回送線が廃止されたことは、前回触れました。
これによって、「とき」と「あずさ」、相互の編成のやり取りをすることが困難になってしまったため、この改正をもって「あずさ」は、「とき」との車両の共通運用を取り止めます。そこで、当局は、同じ「山の特急」である「あさま」との予備車の共通化を目論んで、車両の所属を長野に変更します。「あずさ」編成は「あさま」とは共通運用ではなく、電動車ユニットが「あさま」編成より1組多い10連(うちグリーン車2両)とされました。同じくらいの時期に運転を開始していながら、これまで接点のなかった双方の「山の特急」の軌道が接した瞬間でもありました。
「あずさ」が「とき」との共通運用を解消した、それ以外の理由として挙げられるのが、号車札の差し替えの手間でした。
「とき」をはじめとする上野発着の列車は、上り方に当たる東京・上野寄りの車両が1号車。「あずさ」など中央東線系の列車でも、やはり上り方に当たる新宿寄りの車両が1号車となっています。しかし、「とき」の編成をそのまま東京-上野回送線・山手貨物線経由で持ってくると、上野駅では上り方に位置する1号車が、新宿駅では松本方の先頭になってしまうのです。そのため、「とき」から「あずさ」、あるいはその逆の運用の移り変わりの際には、車両基地などで号車札を差し替える必要が生じています。
現在なら近鉄50000系「しまかぜ」などのように、号車札をLED表示にして自在に切り替えるのでしょうが、当時は板の号車札を使用していた時代。その差し替えの手間も馬鹿になりませんでした。まして当時は、労使関係が行き着くところまで行き着いたかのような、不毛と称するのも生易しいような対立状態にありましたから、労働組合からも、このような作業が必要な運用は嫌われていました。
これに対して、「あずさ」用の編成の運用を「とき」と切り離してしまえば、常に号車札を固定したままで全く問題ないため、差し替え作業は原則として不要になります。そのような手間も、「とき」との共通運用を止めた理由のひとつになっています。

しかし、この運用持ち替えにより、「あずさ」から食堂車が消えてしまいました(②)。
それなら、食堂車組み込み編成のまま長野に移せば…とも思いますが、それは現場が嫌がったのか、予備車が増えてしまって非効率的だったか、そのいずれかでしょう。あるいは、当時上野発着の特急列車の車両の留置場所に使っていた東大宮の操車場から、東北貨物線・山手貨物線を使って新宿に送り込めば、号車番号の逆転は起こらず、車札差し替えなど必要なかったのでは…とも思えますが、折り返しの手間や東北貨物線の線路容量の問題があり、やはり非現実的だったのではないかと思われます。
もはやこのころになると、労使対立以前の問題として、食堂車が必ずしも特急列車の必須アイテムではなくなっていたのかもしれません。だからこそ、「あずさ」に関する当時の当局の判断が「食堂車連結<運用効率化」だったものと思われます。

【チラシの裏】
前回、もしも489系に「あさま」が置き換えられていたら、という話を少ししましたが、もしそうなっていたら、食堂車入りの12連がそのまま「あずさ」にも使われていたかもしれません。ただその場合、全列車で食堂車の営業が可能だったのか、疑問なしとしませんが。

続いて、「あずさ」運用に進出してきた新系列車両について(③)。
その車両とは、房総方面の特急用として幕張電車区(当時)に配属された183系です(当時1000番代はまだ登場していない)。これが「あずさ」の運用に進出してきました。昭和48年10月の改正で、「あずさ」は10往復に増発されましたが、そのうち半数の5往復に充当されています。
当時の同系の編成内容は、グリーン車を1両組み込んだ9連で、房総方面の特急の他、他系統の短中距離の特急への充当も目論んでいました。そのため、耐寒耐雪装備を備え、また補助機関車との協調運転こそできなかったものの、横軽を通過できるように台枠や連結器も強化され、グリーン車も軽井沢寄りとなる編成の端に連結されていました(実際、「そよかぜ」や末期の「とき」代走などに使われたこともある)。内装も、普通車は簡易リクライニングシートとなっており、回転クロスシートの181系よりも、居住性は向上しています。また、183系の特徴は、それまでの特急型車両が片側の扉が1両1ヶ所だったのに対し、乗降性を考慮して1両2ヶ所と、急行型車両と同じにしたこと。これは、房総地区での運用において、末端区間を普通列車として運用することを考慮した結果といわれています。

そしてこの改正では、「あずさ」に自由席が設けられ、同時に「あずさ」は「エル特急」としての指定を受けました(④)。「あさま」に1年遅れての「エル特急」指定ですが、これによって、食堂車の廃止とも相まって、「あずさ」が普通の特急になってしまった感もあります。

昭和48(1973)年は、181系が山陽系統から撤退した歴史的な年だったのですが、同時に山陽地区よりも気候が過酷な甲信越地区で「とき」「あさま」「あずさ」として使用されている同系には、明らかな老朽化の兆候が見て取れるようになりました。気候や運用が過酷なだけではなく、初期の新性能電車は軽量化のため外板を必要以上に薄く作っていたため老朽化のダメージが大きかったこと、労使対立の尖鋭化により日常のメンテナンスがままならなくなってきたことなどの要因により、さらに老朽化は深刻なものとなっていきます。

そこで、当局は、181系の置き換えを検討し始めることになりました。

今回は予告編の4と5に該当する内容を取り上げました。今回以降、予告編とは内容を一部変更してアップすることがあり得ますことをご容赦ください。