「あさま」「あずさ」「とき」に使用中の181系に、顕著な老朽化の傾向が表れてきた昭和48(1973)年。
この年以降、国鉄では183系0番代をベースにした、補助機関車との協調運転により碓氷峠を上下できる、新しい特急型車両の設計を進めてきました。
これこそが189系ですが、昭和48年のクリスマスのころから、大寒波の影響で「とき」の運休が続出、翌49(1974)年初頭には当時の全13往復中5往復が運休を余儀なくされ、運用入りしている車両も不具合が続出するという満身創痍ぶりで、当時の国会でも取り上げられるほどでした。
そのため、国鉄は、新型特急車両を急遽昭和49(1974)年12月に導入、手始めに「とき」13往復中3往復を置き換えました。
これが183系1000番代ですが、0番代との差異は

① 先頭車が非貫通構造になったこと
② パンタグラフ搭載車両がM車(モハ183)からM’車(モハ182)に移されたこと
③ 耐寒耐雪構造を強化したこと

で、1車両あたり2か所の客用扉、普通車の簡易リクライニングシートなどは0番代と同一でした。
ただ、当時の情勢からやむを得ないのですが、食堂車は製造されないばかりか他車種からの改造車も用意されず、この車両で運転される「とき」からは食堂車が消えました。「とき」の場合、業者が営業を希望していたのに食堂車が製造・連結されなかったということで、批判を浴びることともなっています。
ちなみに、183系1000番代が開発決定から実車の落成まで短期間で済んでいるのは、上記「新しい特急車両」189系の設計から碓氷峠における協調運転の機能を省いただけで、その他の部分を流用していることが理由です。これにより、183系1000番代と189系との混結が可能となっており(ただし碓氷峠における協調運転の機能は殺される)、このことが後年、両系列の運用の柔軟性と予備車の削減に貢献することになります。

そして昭和50(1975)年。
この年は、3月の新幹線博多開業で沸きましたが、輸送力増強がままならなかった「あさま」にも、いよいよ「その時」ときがやってきます。それも、489系という「助っ人」の力を借りない専用系列によって。
その専用系列こそ、上記「新しい特急型車両」189系です。189系は碓氷峠における補助機関車との協調運転を可能としたことから、最大12連の編成を組むことが可能で、181系よりも普通車が4両増え、編成定員の増加は1.5倍以上となっています。勿論189系も、「とき」の183系1000番代と同じ12連(うちグリーン車2両)で計画されていましたが、投入当初の段階では、車両基地の設備の関係からいきなり12連を投入するのが不可能だったため、まず10連(うちグリーン車2両)で登場し、同年10月1日付で、489系充当列車以外の「あさま」運用を全て置き換えています。
それでは「あずさ」はどうなったのかというと、昭和50年3月のダイヤ改正の時点では、長野所属の181系使用列車と幕張所属の183系0番代とが半々でした。その半分の181系使用列車について、同年12月6日をもって189系に置き換えられました。当然のことながら、189系は「あさま」と完全な共通運用とされています。181系のときは「あずさ」「あさま」では編成を異にしており、単に予備車を共通化しただけだったのですが、今回初めて、一部とはいえ両列車の完全な共通運用が実現したことになります。これで双方の「山の特急」の軌道が、完全に交わることになりました。
なお、189系には、食堂車は勿論のこと、ビュフェ車も存在せず、乗客に対する食事等の提供は車内販売に委ねられることになりました。このころになると、労使対立や食堂車従業員確保が困難になったことなどにより、食堂車営業列車が新幹線を除いて減少しており、新たに運転を開始する列車で食堂車を連結・営業する列車は少なくなってしまっています。もっとも、「あさま」の場合運転時間の関係もあり、食堂車やビュフェの採算性が問題になったのかもしれませんが。
余談ながら、この「あさま」「あずさ」の189系への置き換えにより、181系が充当される列車は「とき」の1系統だけとなりました。特急電車の始祖151系を源流とする181系も、いよいよ終焉が見えてきた感があります。

この時期の「あずさ」の話題といえば、外せないのが「あずさ2号」。
「あずさ2号」とは当時のフォークデュオ・狩人が歌ったヒット曲なのですが、その曲が驚異的なヒットを記録し(当時のレコードの売り上げ枚数は80万枚とも)、列車としての「あずさ」の知名度も飛躍的に上がりました。
この曲の歌詞は著作権法に触れるので書きませんが、主人公の女性が、これまでの恋人と別れ、新しい恋人と(新宿を)8時ちょうどに出る「あずさ2号」で信州へ旅立つ、という内容でした。

ここで若い人は訝るでしょうね。なぜ下り列車が「2号」という偶数番号なの? と。

実は、この曲がヒットした昭和52(1977)年の当時、号数のある列車は上下とも1号・2号と呼んでいました。これは恐らく、以前の国鉄で同名の複数の列車を「第1〇〇」「第2〇〇」と呼んだことの名残ではないかと思われますが、ただ「〇〇1号」といっても上りか下りか分からない煩雑さに加え、新幹線との整合性も問題とされました。新幹線では東海道新幹線開業当初から列車の号数は下り奇数・上り偶数でしたから、その分かりやすさになじんだ利用者からは、在来線と新幹線で何故号数のつけ方が違うのか、分かりにくいと指摘されるようになりました。それを昭和53年のダイヤ改正で改善したということです。
つまり、昭和52年当時、「あずさ2号」といえば下り・上りとも存在していて、その下りの「あずさ2号」を歌にしたのが、上記の「あずさ2号」だったというわけでして。
なお当然のことながら、当時下りだけではなく上りにも「あずさ2号」が存在しましたが、「あずさ2号(上り)」は、松本発新宿行きで、発車時刻は下りと同じ8時ちょうど。しかも使用車両も同じ幕張所属の183系0番代。これも面白い偶然です。

「あずさ2号」の歌が世に出た翌年の10月、189系編成は当初計画通り2両増結し、12両編成となりました。これにより、「あさま」は勿論、「あずさ」に関しても劇的な輸送力の増強が実現しています。ただ、この改正では「白山」用489系の編成変更が行われ、電動車ユニットを増やした関係で、食堂車が編成から外されてしまいました。
しかし「あずさ」の場合は、大糸線信濃大町方面へ直通する列車が存在し、しかも大糸線の駅構内の有効長では10連が限界であるため、同列車を全面的に189系に置き換えるわけにはいきませんでした。結局「あずさ」に関しては、幕張所属の183系0番代の活躍が継続することになっています。

その後はしばらくの間、「あさま」「あずさ」はほぼ無風で推移するのですが、昭和57(1982)年11月には、上越新幹線の開業により「とき」が廃止され、浮いた183系1000番代が「あずさ」に回されることになります。

その6(№3573.)に続く

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