北陸特急劇場の押しも押されもせぬ「主役」として、確固たる地位を占めてきた「雷鳥」。JR移行の時点では、大阪-金沢・富山・新潟間で19往復が運転されていました。
JR発足後、「雷鳥」のテコ入れが図られるようになります。

「雷鳥」のテコ入れとは、スピードアップと車両のリニューアル。
それまでも北陸線を走る特急は最高速度120km/hで運転されてきましたが、当時攻勢を強めていた高速バスに対抗すべく、「雷鳥」のさらなるスピードアップを計画し、JR西日本は同社の看板列車として、さらなる魅力を付与する試みに出ました。
ここでひとつのネックになったのが、日本の鉄道における「600mルール」。日本の鉄道には、「非常ブレーキをかけた場合、列車が600m以内で停止できること」というルールがあり、踏切のある在来線では、485系の性能を前提とすれば120km/hが限界でした。そこで、踏切がなく線形にも恵まれている湖西線内に限って、最高速度を130km/hに引き上げました。これにより、大阪-金沢間を最速2時間39分で駆け抜けるダイヤが可能になっています。
車両は、普通車は座席を取り換え、グリーン車は改造により1編成あたり2両を組み込むこととし(全体では7両編成)、1両がパノラマ型の先頭形状を持つ先頭車、もう1両が和風車「だんらん」を改造して半室を客室、半室をラウンジとした車両となりました。
外板塗色もそれまでの国鉄標準カラーから一変、白地にブルーとピンクの帯をあしらった、スピード感あるデザインに仕上がりました。
そして列車の愛称は、従来の「雷鳥」とは一線を画す意味合いから「スーパー」を冠し、「スーパー雷鳥」と命名されています。
この「スーパー雷鳥」は、平成元(1989)年3月のダイヤ改正から走り始め、利用者から好評を博しました。この時点では「スーパー雷鳥」は4往復、「スーパー」のつかないただの「雷鳥」は18往復とされましたが、号数は「スーパー雷鳥」が1号から、「雷鳥」が11号から始まるという、新幹線のような方式に改められています。

なお、昭和60(1985)年に華々しく登場した和風車「だんらん」ですが、「スーパー雷鳥」運転開始と引き換えに「雷鳥」編成から全て外されています。和風車「だんらん」は、登場当初こそ持て囃されたものの、各客席が完全な個室になっておらず、客席の静粛性に難があったことや、指定席の発売が4人単位であり、4人未満での利用の場合が煩雑だったことなどから、リピーターがつかず徐々に利用が低迷し、末期には連結列車そのものも減少してしまっていました。
そこでJR西日本は、この「だんらん」を種車とし、グリーン車サロ481-2000に生まれ変わらせています。この車、サシ481→サロ481-500→サロ481-2000と変遷しているわけで、これもかなりの遍歴だと思います。
ちなみに、先頭のパノラマ型グリーン車は、中間車のサロ481を改造して用意されたもので、前面はスピード感溢れる直線的な流線型となっていました。その後、「スーパー雷鳥」の運転本数増加により、普通車から改造した車も現れましたが、このような改造車の常で、その車は座席と窓割が一致しなくなっています。

「スーパー雷鳥」は好評を博し、7連で始まった編成もすぐに増強され、2両増結して9連となります。
平成3(1991)年には七尾線津幡-和倉温泉間の電化が完成し、和倉温泉への電車特急の直通が可能になりました。そこで、JR西日本は「スーパー雷鳥」の編成構成を見直し、従来の基本9連を、分割併合が可能な基本7連+付属3連の10連に改めています。「スーパー雷鳥」の運転本数自体も増やされて7往復となり、「雷鳥」が16往復となっています。勿論、この電化完成に伴って、「ゆぅとぴあ和倉」は廃止されました。
「スーパー雷鳥」の編成は、分割併合が可能になったことで、例えば基本編成を和倉温泉へ直通させて付属編成を富山へ運転するダイヤや、付属編成を富山地方鉄道(地鉄)の宇奈月温泉・立山方面へ乗り入れさせるなど、より柔軟な列車設定が可能になりました。
ちなみに、「スーパー雷鳥」編成の地鉄への直通は、昭和57(1982)年に大阪から急行「立山」の付属編成が直通していたのが一旦廃止され、平成2(1990)年に臨時列車(気動車)で復活したのを受け継いだものです。富山駅の国鉄~JRと地鉄との連絡線は、国鉄時代末期の直通列車廃止後に撤去され、それでJRへの移行を迎えましたが、平成2年に復活させています。
このとき登場した極めつけの珍車がクモハ485-200。485系のオリジナル車は、貫通型といえども高運転台とされ、先頭に立つ場合の見てくれも考慮した形態なのですが、このクモハ485-200は、普通の貫通型で運転台も高運転台とはなっていません。要するに「簡易貫通型」なのですが、国鉄時代末期に「くろしお」に投入された簡易貫通型・クハ480の上を行く簡易型ぶりで、その珍妙な顔は愛好家の注目の的となりました。付属編成が単独で走る金沢-富山間や七尾線(当初、和倉温泉には基本編成が直通していたが、後に基本編成は富山へ振り向けるように改められ、付属編成が直通するようになった)、地鉄などでは、その珍妙な顔を先頭に出して走る姿が見られるようになります。
ただしクモハ485-200の名誉のために一言すれば、485系オリジナル先頭車には必ずある前面のヘッドマーク掲出窓も、この車にはちゃんとありました。そのため、この掲出窓に「スーパー雷鳥」の絵入りヘッドマークを掲出して走っていました。格好いいかと言われるとやや微妙ではありましたが…(←フォローになってない)。

「スーパー雷鳥」は、新型車両681系の導入が開始されると、同系に後を譲るかのように徐々に本数を減らし始め、遂に平成13(2001)年には消滅しています。これによって、JR西日本発足後間もなく、北陸特急劇場に颯爽と登場し、その主役の地位をほしいままにしていた「スーパー雷鳥」は、その舞台から静かに降りていきました。
「スーパー雷鳥」が消えたとはいえ、車両は廃車されたわけではなく、「しらさぎ」や山陰線特急などに転用されました。あのクモハ485-200は一部が山陰線特急に転用され、交流対応の装備を下ろして直流専用とされ、形式もクモハ183-200に改めています。

こうして見てくると、「スーパー雷鳥」は、あたかも485系「雷鳥」から681系「サンダーバード」につながる橋渡しをした、野球で言う「中継ぎ投手」のような印象があります。やはり何と言っても、使用車両が完全新造車ではなかったことが、「スーパー雷鳥」の「中継ぎ」の印象を高めているのかもしれません。
しかし、「スーパー雷鳥」もまた、北陸特急劇場の主要キャストであったことは事実。そのことは、改めてここで強調しておきたいと思います。

次回はその完全新造車、681系のお話に参りましょう。

-その12(№3076.)へ続く-