その9(№3054.)から続く

去る14日、北陸新幹線長野-金沢間が開業し、東京から「かがやき」「はくたか」が走り始めました。
この2つの愛称は、いずれも北陸特急に使われていた愛称ですが、今回は「かがやき」のルーツを取り上げます。

国鉄が改組されJR各社が発足した翌年の昭和63(1988)年、JR西日本は北陸対東京の到達時分短縮のために、新幹線に接続する特急列車のスピードアップに着手します。具体的には、上越新幹線「あさひ」に接続する列車と東海道新幹線「ひかり」に接続する列車をそれぞれ速達化するというものです。新幹線接続に特化された列車は、北陸でも「加越」がありましたが、今回の新列車の設定は、その考え方をさらに深度化させるものでした。
新列車の愛称は、いずれも新幹線の列車愛称との対比が考慮され、「あさひ」に接続する列車は「かがやき」(金沢-長岡)、「ひかり」に接続する列車は「きらめき」(米原-金沢)と、それぞれ命名されました。停車駅も絞り込まれ、「かがやき」は途中高岡・富山・直江津のみ停車(のち一部列車に魚津を追加)、「きらめき」は途中福井のみ停車と、新幹線接続・北陸連絡をこれ以上ないくらい明確に打ち出したダイヤ設定でした。
使用車両には新型車両は用意されず、在来の485系でしたが、内外装には徹底的に手を加えています。
外装はそれまでの国鉄標準特急カラーから、白をベースに赤・青・金のストライプが入る派手なものに変更され、内装はシートピッチを拡大し、ゆったりしたリクライニングシートを並べました。
その他で特筆されるのが、列車内でファクシミリの送受信を可能にしたことと、軽食の自動販売機を設置したこと。このころは、列車内での公衆電話サービスの整備(電話機の設置)が進んでいましたが、この485系ではそれに加え、ファクシミリの送受信も可能としました。自動販売機では、飲み物の他にサンドイッチを売っていました。いずれも、新幹線も含めたそれまでの特急列車にはなかったサービスとして注目されました。
ただ、編成は4連と短くされ、しかもグリーン車はなし。その代わり全車指定席とされ、自由席連結が当たり前だった当時の特急の中では、稀有な存在でもありました。
これら「かがやき」「きらめき」は、前者が1往復、後者が2往復それぞれ設定され、昭和63年3月13日から走り始めています。
なお、「かがやき」「きらめき」というイメージを重視した愛称は、国鉄~JRを通じても、特急としては初となっています。似たような系統の愛称に「ひびき」がありましたが、あれは「音」であり明確なものですから、これらとは違うと思われます。

「かがやき」「きらめき」は好評を博し、これら列車の乗車率は順調に推移しました。特に「かがやき」の人気は絶大で、運転開始翌年の平成元(1989)年3月11日のダイヤ改正では早くも、従来の2往復から4往復に倍増されています。
このころになると、東京-金沢間での鉄道利用は、上越新幹線のスピードアップもあり、また東海道新幹線経由よりも上越新幹線経由の方が距離が短いこともあり、徐々に上越新幹線経由の利用客が増えていきます。平成3(1991)年3月のダイヤ改正では福井に足を延ばす「かがやき」が1往復増え、さらに「かがやき」は充実しますが、一方では「きらめき」が全車指定席を止めて自由席を設けるようになり、「加越」との差異が曖昧となってしまうという、やや明暗を分ける出来事もありました。
平成4(1992)年3月には、「かがやき」「きらめき」の編成が増強され、先頭車をグリーン車に改造、編成も6連となります。それと同時に「かがやき」には和倉温泉に達する列車が1往復増え、合計で6往復となりました。
「かがやき」の快進撃は、走行区間をほぼ同じくする「北越」にも影を落としました。平成3年には「北越」1往復が長岡発着になり、翌年には何と1往復の長岡-新潟間が快速・普通列車に格下げされてしまうという、国鉄時代には到底考えられない事態が出来しています。走行区間の末端が普通列車になる特急列車の出現は、北陸特急では「北越」が初めてでした。さらに平成6年12月には、もう1往復の「北越」が長岡発着になっています。
その間には、「かがやき」はさらに編成を増強、グリーン車1両を連結した8連にまで成長しました。
他方、「きらめき」はグリーン車連結こそ実現したものの、編成は6連のままとされ、ますます「加越」との差異が曖昧になってしまいます。

これら両列車は、平成9(1997)年3月22日のダイヤ改正で、その命脈が断たれることになりました。
この改正では北越急行ほくほく線の開業により、同線を経由して越後湯沢と金沢などを結ぶ「はくたか」の運転が開始されました。それまで長岡と金沢・福井・和倉温泉を結んでいた「かがやき」は、直江津以東を長岡ではなく越後湯沢へ振り向ける形で「はくたか」に建て替えられ、その歴史を閉じています。
他方、この改正では「きらめき」も、「加越」との差異がいよいよ曖昧になって来たため、使用車両はそのままで「加越」と統合、こちらも歴史を閉じています。
結局、昭和63年の運転開始後僅か9年で、これら両列車は北陸特急劇場の舞台から消えることになりました。

「かがやき」は列車自体がなくなったものの、「はくたか」への発展的解消を遂げた。
「きらめき」は、「加越」に吸収されてしまった。
同じ使命を受けて登場したはずの両列車が、これほどまでに明暗がくっきりと分かれた理由は何だったのか。いろいろと挙げることはできるでしょうが、最大の理由は「『かがやき』が上越新幹線経由の東京-北陸間のルートを太くしたこと」ではないかと思います。昭和63年の段階では、東京-北陸はまだ東海道新幹線経由の方が優勢でした。それが上越新幹線のスピードアップや「かがやき」の登場などで、少なくとも東京-富山・金沢間に関する限り、上越新幹線経由のルートがメインになったといえます。それ故に「かがやき」は、列車そのものは消えても、「はくたか」へバトンを受け継ぐことができたのではないか。そのように考えられます。
これ以後「かがやき」の愛称はお蔵入りになりましたが、今回の北陸新幹線開業で「かがやき」の愛称が、速達型の新幹線列車の愛称名として、18年ぶりの復活を果たしています。同時に、「はくたか」も、主要駅停車型の新幹線列車の愛称名として、在来線から昇格しました。在来線特急の「かがやき」の歴史を見てくると、この愛称が新幹線に昇格したのは、まさしく歴史の必然のように思われてなりません。「かがやき」が北陸特急劇場の舞台に上がっていたのは、期間にすれば僅か9年という短いものですが、その僅か9年の間に残した功績がかくも偉大だった、ということです。
ちなみに「きらめき」ですが、この改正の3年後、何とJR九州で門司港・小倉-博多間の特急として愛称が復活し、現在も健在です。

次回は北陸特急劇場の柱、「雷鳥」のスピードアップについて取り上げます。

その11(№3069.)に続く