その8(№3044.)から続く

国鉄時代最末期からJR発足後数年、昭和61(1986)年から平成4(1992)年くらいまでは、北陸特急が大きく様変わりした時期です。ざっと挙げると、

・和倉温泉直通
・「かがやき」「きらめき」登場
・「雷鳥」のスピードアップ

とありますが、順次取り上げていきましょう。予告編とは一部順番を違えますが、ご了承ください。

昭和61(1986)年、国鉄は、近く発足する西日本会社の収益の柱となるであろう北陸特急にさらなる魅力を付加させるべく、七尾線への直通列車の復活を模索し始めます。
七尾線への直通列車自体は、気動車急行の「ゆのくに」(大阪-輪島など)がありましたが、昭和53(1978)年10月のダイヤ改正で廃止されました。その後も高山線経由の夜行「のりくら」の臨時延長運転がありましたが、こちらも昭和59(1984)年2月に列車そのものが廃止されてしまいました。
七尾線は、一大観光地である能登半島、有名温泉街である和倉温泉へのメインルートとして、金沢からの急行「能登路」が運転されてきましたが、大阪・名古屋方面からだと金沢での乗り換えが不可避のため、直通列車運転の検討に入ります。
しかし、当時の七尾線は電化前。電車の直通は不可能でした。

このころの国鉄では、電化路線から非電化路線への直通が模索されていました。中央東線では、やはり非電化の小海線清里・野辺山へ直通する「葉っピーきよさと」が運転され、こちらは電車(169系)で運転し、非電化区間をディーゼル機関車が牽引するという形態が取られました。翌年、豊肥線水前寺への乗り入れを開始した特急「有明」でも、同様の運転形態がとられています。
しかし、小淵沢-野辺山間や熊本-水前寺間に比べると、この場合の非電化区間となる津幡-和倉温泉間では距離が長いことや、七尾線の規格が低く大型・大出力の機関車が入線できないことなどから、機関車牽引は非現実的であるという結論に達しました。
そこで気動車による直通となったのですが、今度は、大阪から金沢まで延々気動車を運転するのは非効率的ということで、大阪-金沢間を電車に併結、それも電車にぶら下がる形で連結するという、まさに前代未聞の奇策と言ってもいい手段が取られることになりました。
そこで用意されたのが、当時だぶついていた急行型大出力気動車のキハ65を改造した2連。グリーン車扱いの、どちらかといえば団体専用のジョイフルトレインの範疇に入るこの車両は「ゆぅとぴあ」という愛称をもって落成し、大阪-和倉温泉間の列車の名前は「ゆぅとぴあ和倉」となりました。
なぜ和倉温泉直通がグリーン車の2両となったかといえば、電車に牽引される形態なので編成両数を少なくせざるを得ず、であれば客単価の高いグリーン車にしたいという思惑があったこと、和倉温泉を目的地とする観光客であれば中高年の富裕層が多く、グリーン車のみでも受け入れられる勝算があったこと、そして何より、当時の空前の好景気があったことが推察されます。

「ゆぅとぴあ和倉」は、昭和61年12月27日から運転を開始し、当初は週末及び多客期運転の臨時列車とされました。車両としての「ゆぅとぴあ」の基地が金沢だったため、送り込みを兼ねて大阪-金沢間などに単独で「ゆぅとぴあライナー」が運転されていました。「ゆぅとぴあライナー」は、昭和47(1972)年9月の「白鳥」電車化以来14年3ヶ月ぶりに、北陸特急劇場に帰って来た気動車特急ということになります。
そしてJR西日本発足後の昭和63(1988)年、「ゆぅとぴあ」と同形態の車両を、やはり同じキハ65の改造により用意し、こちらは「ゴールデンエクスプレスアストル」と名付けられました。「ゆぅとぴあ」が2連1本しかないため、車両の余裕がなかったことから増備されたもので、「ゆぅとぴあ」が検査入場などの際には、「~アストル」を「ゆぅとぴあ和倉」として運転することを可能にしました。これによって、「ゆぅとぴあ和倉」は、同年3月のダイヤ改正以降、臨時列車扱いでありながら毎日運転とされました。
「~アストル」が「ゆぅとぴあ」と異なるのは、増結可能な中間車を用意していたことです。勿論「~アストル」単独運行の際にだけ組み込まれる車両で、この車両を組み込むと最高速度が95km/hに制限されるため、最高速度120km/h(当時)の「雷鳥」に併結される際には、組み込むことができない車両でした。
「ゆぅとぴあ」「~アストル」は「ゆぅとぴあ和倉」の他にも、大阪~富山間を「雷鳥」に牽引されて、富山から高山本線に入って高山まで運転する「ユートピア高山」などにも充当されたことがあります。
七尾線への直通列車が復活したのは喜ばしいのですが、悲報もひとつ。最初のうちは「ゆぅとぴあ」を牽引する485系編成は、貫通型か非貫通型の先頭車をもつ編成に限定されていましたが、後に運用上の制約を取り払うため、ボンネット型の先頭車をもつ編成にも改造が施されました。改造内容は、連結器を非常用の自動連結器から密着式に取り換え、ジャンパ栓の新設のためスカート部分をざっくりと切り取ったこと。この工事により、ボンネット型先頭車は、当初の優雅な風貌が損なわれてしまいました。しかしそれでも、原型をとどめたボンネット型先頭車も1両だけあって(クハ481-126)、この車両が愛好家の熱い注目を集めたのは言うまでもありません。またこの改造を受けたのは向日町所属の車だけであり、金沢のクハ489などには改造が施されませんでした。

「ゆぅとぴあ和倉」は、平成3(1991)年の七尾線電化により使命を終え、同年9月で廃止されました。使用車両の「ゆぅとぴあ」及び「~アストル」は、その後も団体用車両として使用されましたが、それぞれ平成7(1995)年及び平成9(1997)年に、惜しまれつつ退役しています。「ゆぅとぴあ和倉」なき後は、大阪から「雷鳥」が、名古屋から「しらさぎ」が、それぞれ直通してくることになりました。
今にして思えば、昭和53(1978)年10月の七尾線直通の急行「ゆのくに」廃止後、キハ181系を一部の「雷鳥」に投入して、七尾線へ直通すればよかったのではないかと思われますが、これをやらなかったのはなぜか。恐らく、このころの国鉄は労使関係が最悪な状態に陥っていたため、運転実績のなかった北陸線にキハ181系を運転させるということができなかったのでしょう。
もっとも、北陸線にキハ181系が全く走らなかったといえば、決してそんなことはありません。JR発足直後から平成22(2010)年くらいまで、富山県八尾町(現富山市八尾地区)で開催される「おわら風の盆」観客輸送のための臨時特急が、同系を使って運転されていたことがあります。また、やはりJR発足後から平成13(2001)年くらいまで、同じキハ181系を使ってスキー臨時列車「シュプール号」が運転されていたことがあります。

こうして、僅か5年足らずで「ゆぅとぴあ和倉」という列車は消えましたが、僅か5年足らずの間に、強烈なインパクトを残したといえます。「ゆぅとぴあ和倉」は、「白鳥」「雷鳥」「しらさぎ」などとは別の意味で、北陸特急劇場の歴史に残るキャストであり、「怪演」であった(勿論褒め言葉です)といえるでしょう。

その10(№3063.)へ続く