昭和60(1985)年3月の全国ダイヤ改正では、「日本海」「つるぎ」は無風で推移し、「北陸」も廃止を免れました。「北陸」用の14系客車は、漸く2段化改造に着手されています。14系で運転されていた急行「きたぐに」は、何と583系に置き換えられ、A寝台車を改造してまで用意しました。浮いた14系は、20系で運転されていた急行「銀河」(東京-大阪)の置き換えに供されています。
なお、583系の急行への使用で話題をまいた「立山」ですが、この改正で廃止されています。流石に大阪-金沢・富山間では、夜行として走る距離が短すぎたのでしょう。

このころ、国鉄を改革するためには分割・民営化しかないという方向性が定まり、国鉄自身も新会社設立準備に向けて動き始めます。その集大成が昭和61(1986)年11月に行われた、国鉄としては最後の全国ダイヤ改正ですが、この改正でも「日本海」「つるぎ」「北陸」は依然として無風で推移し、その状態で民営化を迎えました。
国鉄民営化は昭和62(1987)年4月のことですが、このころには、青函トンネルや瀬戸大橋の開業が間近に迫ってきており、それらを利用して本州-北海道・四国の直通列車が計画されるようになります。北陸夜行特急の「日本海」について、青函トンネルを通して函館・札幌へ延長する案が浮上し、昭和50(1975)年に外されて以来13年ぶりとなる、食堂車の連結が計画されました。そこで、当時余剰となっていた485系の食堂車サシ481から24系客車と連結できるよう改造した車両が3両用意され、当初は青色に塗られて団体列車などに使用されました。
昭和63(1988)年3月の青函トンネル開業の際には、「日本海」のうち1・4号が函館まで延長されました。当時の「日本海」1・4号の編成は5号車が欠車となっていて、これは食堂車の連結を想定したものとされました。
しかし、流石にB寝台モノクラスの編成を札幌まで引っ張るのは、長距離列車として設備が貧弱ではないかなどと疑問が呈され、「日本海」の札幌延伸は幻と消えました。
大阪-札幌間寝台列車の構想は、別の形で実現しました。超豪華寝台列車「トワイライトエクスプレス」として。この列車に関しては、様々なところで語られていますから、ここでは詳しくは触れません。「トワイライトエクスプレス」は、まず団体臨時列車として平成元(1989)年から運転を開始し、その後程なく臨時列車となりました。人気の高まりとともに、平成2(1990)年には3編成が用意され、ピーク期の毎日運転を可能とし、旺盛な需要に応えています。
ただしこの列車、日常の移動ではなく乗ることそのものを楽しむクルーズトレインに近いもので、これまでのブルトレとは明らかに毛色を異にする列車であることは確かです。それ故にこの列車を「北陸特急劇場ソワレ」の登場キャストに含めていいかどうかは、管理人自身激しく疑問を覚えるのですが…。

JR発足後、「北陸」も夜行高速バスなどとの競合で優位に立つべく、個室寝台車の連結を平成元(1989)年から開始し、翌年には個室比率は当時の寝台特急の中では高い50%まで達しました。また当時は「あさかぜ」「瀬戸」と「北斗星」にしかなかったシャワー室を備えた車両を改造で投入するなど、「北陸」の体質改善は目覚ましいものがありました。
それと相前後して、「北陸」の金沢駅到着が朝早すぎることから、隣の東金沢駅まで回送して朝遅くまで寝ていられる「チェックアウトサービス」を開始しました。これはアイデア賞ものだと思ったのですが、実際には1駅バックすることなどからか、大っぴらに宣伝することができなかったため、コアな利用者にしか知られなかったようで、結局数年後にひっそり取りやめられています。

1990年代半ばころになると、それまで栄耀栄華を誇っていた寝台特急の凋落が顕著になります。具体的には、乗客の逸走の急激な進行。「九州ブルトレ」に初めてリストラのメスが入れられた平成6(1994)年12月のダイヤ改正では、「つるぎ」が廃止され、大阪-新潟の夜行は「きたぐに」だけになりました。
そのような中でも、サービス改善への歩みは続けられ、平成10(1998)年には「日本海」1・4号には「瀬戸」の「サンライズエクスプレス」置換えで余剰となった個室A寝台車を連結しています。
しかし、平成11(1999)年には「北陸」も基本編成を12連から8連に減車、減った4両は多客期に増結するとされたものの、その増結を実施する日も次第に少なくなっていきました。

それでも「トワイライトエクスプレス」は盤石の人気を誇り、「日本海」は他系統のブルトレが本数を減らす中2往復体制を堅持してきたのですが、「トワイライトエクスプレス」はともかく、「日本海」2往復はいずれも、これといった特色もなく国鉄時代そのままの実用一辺倒の設備でしたから、これではいくら「日本海」といえども、「ブルトレ離れ」の波に抗えるはずもありません。
結局、「日本海」は、平成18(2006)年に1・4号の函館乗り入れがなくなり、その2年後の平成20(2008)年3月、遂に1往復に削減されました。季節列車増発から33年ぶり、定期列車2往復体制確立から30年ぶりに、列車名に号数がつかなくなっています。余談ですが、この改正では「北斗星」(上野-札幌)も1往復化され、同一愛称複数運転のブルトレ、つまり列車名に号数がつく定期のブルトレが消えました。

「北陸」は、他系統のブルトレより乗車率が高く、北陸新幹線開業までは安泰だろうと思われていたのですが、やはり車両の老朽化がいかんともしがたかったのか、平成22(2010)年3月のダイヤ改正で廃止されてしまいました。この改正では同一区間を走っていた急行の「能登」も臨時に格下げされ、東京と北陸を結ぶ定期夜行列車が消えています。
そしてその2年後、とうとう「日本海」「きたぐに」がなくなる日がやってきてしまいました。平成24(2012)年のダイヤ改正で、これら2列車は廃止されます。両列車とも使用車両が国鉄時代の製造で、老朽化も無視できないレベルに達していたことと、利用率が落ちたことが廃止の理由です。「日本海」「きたぐに」とも、廃止後1年ほどは多客期に臨時列車として運転されましたが、それも現在は見られなくなってしまいました。
「北陸」「日本海」の廃止により、残ったのは「トワイライトエクスプレス」だけになってしまいました。しかし、前述したとおり、この列車は一種のクルーズトレインであり、もはや日常の移動手段としての列車ではありません。ですので、平成24年の「日本海」廃止をもって、昭和43(1968)年のブルトレ「日本海」登場から44年間に及んだ「北陸特急劇場ソワレ」は、遂に終演のときを迎えた。そう断じて差し支えないのだと思います。

その「トワイライトエクスプレス」も、もうすぐ廃止されます。これによって、日本海縦貫線を全線走破する列車が消滅することになりますが、同時に、鉄道在来線による長距離輸送が、たとえクルーズトレインに近い形態であってさえも、成り立つことが難しくなっている現実には、改めて戦慄せざるを得ません。新幹線開業の負の側面がここにあるのではないかと思います。

これにて、北陸特急劇場ソワレは終了。次回はマチネーに戻り、民営化直後の動きを見ていきます。