その1(№2987.)から続く

前回少し触れましたが、北陸線の電化は進展し、昭和39(1964)年には富山(富山操車場)まで達しました。
それを期して…ということか、この年の10月に予定されていた全国ダイヤ改正を機に、北陸線でも待望の電車特急が走り出すことが決まりました。この年のダイヤ改正の大きなエポックは、言うまでもなく東海道新幹線開業ですが、それ以外にも全国規模でダイヤを刷新することが予定されていました。
電車特急自体は、それまでにも東海道・山陽線や上越線で走り始めていましたが、いずれも直流電車。北陸線は直流区間と交流区間を跨ぐため、双方を走ることのできる車両が用意されました。
この車両こそが、日本初の交直両用特急型電車481系なのですが、交直両用電車の技術は、既に近郊型や急行型で確立されていましたから、あとは外観と客室設備を特急用に整えるだけです。
しかし、交流電化区間と言っても実は2種類あります。それは電圧ではなく周波数の差で、北陸と九州は交流2万ボルト・60Hz、関東・東北は同じ電圧で50Hzという差がありました。当時の技術では、2種類ある交流電化区間の両方を走行することができる車両はまだ開発されておらず、既に世に出ていた近郊型・急行型とも、交流電化区間はどちらか一方のみの対応であり、形式も分けられていました。そのため、特急型の481系も、交直両用とはいえ、交流区間は九州・北陸の2万ボルト・60Hzに対応しているだけで、関東・東北の50Hzには対応していません(こちらには別に483系が作られた)。
ともあれ、481系は、151系の流れをくむデザインとなり、151系譲りの流麗なボンネットスタイルとされ、1等車は1編成当たり2両、勿論食堂車も用意されました。そして勿論、外板塗色はクリームにワインレッドのツートン。これら全てが渾然一体となり、特急型車両らしい気品と威厳を醸し出していました。ただし低床化を目論んだ151系とは異なり、搭載機器の関係で床が151系より高くなり、そのため乗降口にはステップが設けられています。

この481系を使った北陸線初の電車特急は、大阪-富山と名古屋-富山の2系統が用意され、前者は「雷鳥」、後者は「しらさぎ」の愛称が付けられました。
当時の国鉄では、特急列車の愛称は「つばめ」「はと」「はやぶさ」「白鳥」など鳥にちなんだものか、あるいは「あさかぜ」「しおじ」「おおぞら」のように抽象的な名前かのいずれかが基本であり、その基本線に沿った命名となっています。「雷鳥」「しらさぎ」、いずれも鳥にちなんだ愛称です。
「雷鳥」は、言うまでもなく立山山系に生息する鳥のライチョウが由来ですから、列車の目的地である富山にもちなんだ愛称となっています。
では「しらさぎ」は?というと、これもちゃんと沿線にちなんでいます。それは沿線の山中温泉(石川県)の「開湯伝説」。
山中温泉の歴史は古く、開湯から1300年とされます。そしてその「開湯伝説」とは、鎌倉武士がたまたま、傷を負った白鷺が湯で傷を癒しているところに出くわし、改めて掘ってみたところ温泉が湧き出た…という「白鷺伝説」。「しらさぎ」という特急列車の名はここから来ています。

昭和39年、10月に実施されるダイヤ改正の概要が発表されると、「雷鳥」「しらさぎ」という新しい電車特急の登場に、沿線は沸きました。
ただし両列車の運転開始は10月1日のダイヤ改正ではなく、そこから2ヶ月半以上経過した同年12月25日からとされました。そのため、「交通公社の時刻表(現JTB時刻表)」昭和39年10月号には、両列車の時刻が掲載されていますが、「12月25日から運転」という但し書きが記載されていました。
こうなってしまったのは、車両の落成が10月1日に間に合わなかったから。現実の481系編成の落成と車両基地への配属は、同年の11月にずれ込んでしまったのです。それなら11月から運転すればよかったと思う方もいらっしゃるでしょうが、そこはやはり初の交直両用電車特急ですから、配属後の1ヶ月半を乗務員や食堂従業員の訓練に充てたのでしょう。
ちなみに、481系の配属先は向日町運転所(当時)とされましたが、これは当時481系への置き換えが計画されていた、新大阪発着の山陽線系統の「つばめ」「はと」(いずれも新大阪-博多)と予備車を共通化し、検修の手間も減らす目論見があったものと思われます。
余談ですが、東海道新幹線開業と同時に走り出した「つばめ」「はと」は、最初は151系で運転され、関門トンネルと九州内は電気機関車で牽引されていたんですよね。現在からすると信じられない話です。

ともあれ、東海道新幹線開業と東京五輪に沸いた昭和39年、その年のクリスマスプレゼントとばかり、12月25日から「雷鳥」「しらさぎ」が走り出し、利用者に好評をもって迎えられます。
その翌年、前回触れたとおり「白鳥」の上野編成(信越白鳥)が独立して運転区間を上野-金沢に改め、愛称を「はくたか」と改めました。ちなみにこの年の10月、151系による変則的な運転を行っていた「つばめ」「はと」は、晴れて481系に置き換えられ、機関車のお世話になることなく九州への乗り入れを実現させていますが、このとき投入された481系は「雷鳥」「しらさぎ」用と同じ11連でありながら、北陸方面の増発に回されることはありませんでした。
昭和41(1966)年には、481系編成を増備、これにより「雷鳥」が1往復増えて2往復体制となりましたが、「しらさぎ」は1往復のまま推移しています。
昭和42(1967)年のGWには、「雷鳥」の臨時列車が登場しましたが、これは481系ではなく、キハ80系気動車。既に「雷鳥」の運転区間は全線にわたって電化されたにもかかわらず、なぜキハ80系が登板したのか。これには色々理由があり得ますが、最大の理由は481系の予備編成が少なかったことでしょう。

そして「ヨン・サン・トオ」といわれる昭和43(1968)年10月のダイヤ改正において、「雷鳥」「しらさぎ」とも増発され、それぞれ3往復・2往復となりました。
実はこの「ヨン・サン・トオ」は、直流電化区間は勿論、交流電化区間を両方走れる万能型特急電車、485系が落成した年でもあります。この翌年以降、電化の進展などもあって北陸特急は大きく変動するのですが、その変動の過程を、対東京と対大阪・名古屋とに分けて見ていくことにいたしましょう。

その3(№3003.)に続く