改めまして、新年明けましておめでとうございます。今年も当ブログ及び当ブログ管理人を、宜しくお願い致します。

今年2015年の連載のテーマは、「北陸特急劇場」。北陸新幹線開業を寿ぎ、北陸線を走った特急列車の歴史を回顧しようというのがテーマです。したがって、当連載記事で言うところの「北陸特急」とは、北陸線を走る大阪・名古屋・東京発着の特急列車と定義し、お話を進めることにいたしましょう。
なお、連載記事は原則として毎週火曜日更新とさせていただきますが、管理人の本業その他の都合により守れない場合もありますので、その点は悪しからずご了承願いますm(__)m

北陸線は戦前から国の重要幹線であったにもかかわらず、特急列車とは戦後しばらくの間まで無縁でした。当時は特急といえば文字通り「特別な列車」。そのため、特急列車の運転区間も東海道~山陽~九州系統に限られており、昭和33(1958)年に「はつかり」が東北初の特急として運転を開始したときには、大変な話題となりました。
その3年後、「サン・ロク・トオ」と称される昭和36(1961)年の全国ダイヤ大改正。この改正では、キハ82系気動車を使い、北海道から九州まで特急網が張り巡らされました。
このとき登場したのが、大阪から北陸線を経由して青森と上野を結んだ特急「白鳥」。この列車は、大阪-直江津間で青森行きの6連と上野行きの6連を併結し、直江津から先はそれぞれ単独運転で青森と上野へ向かう列車でした(上野-直江津間は横川・長野経由)。今では到底考えられない設定ですが、短編成をそれぞれ併結運転にしたのは、それまで特急列車が走っていなかった路線に走らせるので、どれだけの需要があるかつかみきれなかったのも理由でしょう。また、需要が未知数なので、できるだけ多様な使命にこたえることができるような列車設定にしたという理由もあると思われます。いくら東海道新幹線開業前とはいえ、流石に上野から大阪まで通しで乗る乗客はいなかったでしょうから。
なお、青森行きと上野行きが同じ「白鳥」という名前だったことから、混同防止のため、国鉄内部では青森行きを「青森白鳥」、上野行きを「信越白鳥」として区別していました。また列車名の「白鳥」は、青森行きの列車が通る新潟県の「瓢湖」に飛来する白鳥に由来するものと説明されますが、当時の国鉄内部では昼行の特急列車には鳥の名前をつけるのが常道とされていたため、先輩格の「はつかり」と関連性を持たせるべく、北国のイメージの強い「白鳥」を選んだという説もあります。恐らく両方とも正しいのでしょう。
ともあれ、北陸線で最初に走った特急列車は「白鳥」である。これは揺るぎない史実です。

運転開始当初の「白鳥」を彩った逸話は多く、有名な「能生騒動」をはじめ(運転停車だったのが時刻表に停車時刻が掲載されたため起こった騒動)、上下で大聖寺・動橋と停車駅を違えたこと(これは山陰の『まつかぜ』などでもあった)、「青森白鳥」「信越白鳥」双方に食堂車が連結されていたという「ダブル食堂車」などありますが、ここで挙げておきたいのは、昭和37(1962)年に発行された、「北陸トンネル開業記念切手」です。
北陸トンネル開業前の北陸線は、「杉津越え」といわれた海沿いの難所を通っており、輸送上の隘路のひとつとなっていました。北陸線には「杉津越え」以外にも、親不知付近など輸送上の隘路が多くあったのですが、それらの多くは後に改善されています。「杉津越え」についても、北陸トンネルを建設することで電化と複線化を同時に達成し、輸送上の隘路をひとつ解消したわけです。国鉄は、北陸トンネルが当時の日本最長のトンネルになることからか、北陸トンネルが開通した昭和37年、記念切手を発売しました。その記念切手には、トンネルから出てくる「白鳥」のキハ82系がデザインされていました。
もっとも、この切手、突っ込みどころが山のように見受けられる、所謂「エラー切手」ということで名を馳せ、鉄道愛好家や切手愛好家の(別の意味で)垂涎の的となったということです。
ちなみに、「青森白鳥」は、片道1000kmを超える距離を走破し、昼行特急としては最長の走行距離を誇りました。この走行距離は、後に日本海縦貫線の全線電化完成によって485系電車に置き換えられるまで、気動車による世界最長距離を運転する列車として君臨していました。

ともあれ、「白鳥」は北陸線の新たなスターとして、他のキハ80系使用の気動車特急と同様、利用者に絶大な人気を博し、青森編成・上野編成とも高い利用率をマークしました。そのため、「白鳥」の特急券は、「青森白鳥」「信越白鳥」とも、大変なプラチナチケットと化し、6連では押し寄せる乗客を捌ききれなくなってきました。
そこで、運転開始からちょうど4年後の昭和40(1965)年10月、双方の編成を独立させ、大阪-青森間の列車を「白鳥」とし、上野発着の列車は上野-金沢間の運転となり、愛称を「はくたか」と改めました。北陸新幹線金沢開業後には、東京-金沢間で同じ名前の新幹線列車が走り始めますが、その源流となっているのは、このとき「白鳥」から独立した「はくたか」でしょう。
ところで、「はくたか」とは「白鳥」との語呂合わせで「白鷹(はくたか)」なのか。そういう理由で安直に名付けたのか? 実は管理人は、つい最近まで恥ずかしながらそう思っていました。しかし、よく調べてみますと、話はそんな単純ではありませんでした。実は、立山開山にまつわる「白鷹伝説」に基づく、実に深い意味のある由緒正しい愛称だったんですね。詳細は長くなるので、興味のある方は雄山神社のHP該当ページをご覧ください。なるほど、これなら富山・金沢方面を目指す特急としては相応しい愛称だ、と思えます。

前後しますが、「白鳥」が青森行き・上野行きを併結した姿で走っている間にも、北陸線の電化は進展し、昭和37(1962)年12月には米原-田村間を直流電化して田村駅の米原寄りにデッドセクションを設けて、既に交流20000V・60Hzで電化されていた田村以北の電化区間と接続され、電車による直通運転を可能にしました。しかし客車列車や貨物列車については、かなり後年まで米原-田村間で蒸気機関車やディーゼル機関車による継走が見られ、交直両用機関車による直通は見られませんでした。
その後の北陸線の電化は交流電化によって進められ、昭和38(1963)年4月には金沢まで、翌年8月には富山操車場(富山駅の先)まで、電化区間が伸びていきました。
そうなると、電化方式の違いこそあれ、大阪から金沢・富山まで電車が直通できるようになります。
既に福井まで電化が達した昭和38年4月の時点で、471系電車を使用した急行列車が大阪-福井間に運転されるようになっていましたが(後に電化区間の伸長とともに運転区間も延伸)、富山までの電化完成を前にしたころから、新しい電車による特急列車の運転が計画されるようになりました。
それが「雷鳥」「しらさぎ」ですが、そのお話はまた次回。