北陸本線の電化は、「雷鳥」「しらさぎ」が走り出した翌年の9月、糸魚川まで達しました。
ただ「日本海縦貫線」の一角を形成する、信越本線の長岡-新潟間が先行して直流で電化されており、直流と交流との接点ができるためか、糸魚川と直江津・宮内をつなぐ電化の完成は、昭和44(1969)年までずれ込みました。この年、8月24日に直江津-宮内間の、同年10月1日糸魚川-直江津間の電化が、それぞれ完成しています。直流と交流との接点は、糸魚川-梶屋敷間の糸魚川寄りにセクションを設け、そこで車上切り替えをする方式がとられました。
ともあれ、これによって、北陸本線は全線複線化・電化が完成したことになります。

北陸本線の全線複線化・電化完成と、直江津-宮内間が電化され、電化区間がつながったことにより、大阪から新潟まで交直流電車が直通できるようになりました。
この電化完成によって、北陸特急にも新たな動きが生じるのですが、それは、対東京と対大阪・名古屋とに分かれます。
そこで以下、予告編とはやや異なりますが、当記事と次記事を「北陸線電化進展による特急陣容の変遷」とし、当記事を「前編」として対東京の列車について述べ、次の記事を「後編」として、対大阪・名古屋の列車について述べて参ります。

上記電化完成に伴い、国鉄は、上野-金沢間を長野経由でキハ80系により運転されていた特急「はくたか」について、運転経路を長野経由から上越線経由に、車両を「雷鳥」などと同じ編成の485系(481系含む。以下同じ)11連に変更しました。
それまでの「はくたか」は長野経由で運転されてきましたが、アプト式から粘着運転に切り替わったとはいえ、補機のEF63形との協調運転をやらない(できない)気動車では8連が限界で、それ以上の編成増強が不可能でした。そこで、思い切って碓氷峠を通らない上越線経由のルートに変更し、電車化したものです。
ここでちょっとした裏話を。
「はくたか」に使われる485系は、向日町運転所(当時。以下同じ)の所属とされたのですが、ここの485系は、「はと」「みどり」「しおじ」など山陽・九州系統の特急と共通運用だったことから、非常に過酷な運用を組んでおり、予備車も少なく編成運用が非常にタイトだったそうです。上越線沿線といえば、言わずと知れた日本屈指の豪雪地帯ですから、冬場などはその影響をまともに受けてしまいます。そうなると、「はくたか」の遅れや車両の不具合は、共通運用の「雷鳥」「しらさぎ」、山陽の「はと」などにまで影響が波及してしまいます。現場はこれに頭を抱え、山陽・九州系と北陸系、特に「はくたか」の切り離しを何度も本社に陳情していたそうですが、このころ既に国鉄の財政は怪しくなってきており(国鉄の財政は昭和43年から完全に赤字に転落)、余裕がなくなったこともあったのか、聞き入れられることはありませんでした。向日町運転所による「はくたか」の担当は、実に昭和53(1978)年9月まで続くことになります。

ところで、国鉄は、昭和42(1967)年、横軽間の補機EF63と協調運転が可能な169系を世に出しています。当時は上野-長野-金沢間には客車急行の「白山」が走っていたのですから、169系の交直両用バージョン(459系ないし479系?)を作れば、急行のまま「白山」を12連化でき、大幅な輸送力の向上が実現したはずなのです。しかし、国鉄はこれをやらなかったんですね。その理由は、このころ既に長距離列車の主役が急行から特急に移っていたことや、485系に169系のような協調対策を施した車両を用意して「白山」を特急化しようという思惑があったのではないかと思われます。碓氷峠をEF63にエスコートされる、クリームとあずき色の交直流急行型電車も見てみたかったですけど、それは模型の世界で再現させましょう。
結局、「白山」は、後述するように特急化されるまで、客車のまま推移し、晩年は全国的にも珍しい客車の昼行急行となっていました。

そして昭和47(1972)年。
この年は、3月に山陽新幹線岡山開業を迎えましたが、国鉄はこれを機会に全国的なダイヤ改正を実施しました。
この改正では、北陸特急劇場の舞台に、新たな名優がふたり上がることになりました。そのうちのひとりが、対東京の特急に深くかかわっています。
これが言うまでもなく、485系の横軽協調バージョン489系。この車両は横軽間で補機EF63と協調運転が可能とされ、最大12連を組むことが可能となりました。しかも、485系と同じように、直流区間は勿論、交流区間でも50Hz・60Hz両方の区間を走れるという、国鉄の電化区間であればどこでも走れる車両でした。485系は走行区間を選ばないことから、「特急型車両のオールラウンダー」と評されることが多いですが、489系はそれに加えて横軽も走れるものの、「オールラウンダー」というよりは「スペシャリスト」的な評価の方が多いのかと思われます。
国鉄はこの改正で、この車両を使った「白山」を、上野-金沢間に1往復設定。編成は485系の11連にT車を1両加えた12連。気動車時代の「はくたか」に比べれば、1本の列車でも実に1.5倍の輸送力増となりました。また居住性も、冷房のない旧型客車を連ねた急行時代に比べれば雲泥の差。しかも長距離特急の必須アイテムである食堂車も用意され、客車急行時代とは比べ物にならないレベルアップを果たしています。

「白山」は早くも、この年の11月から2往復体制とされ、3年前の気動車「はくたか」と比べると、上越線経由の「はくたか」1往復を加えれば11連又は12連の大編成で3往復と、飛躍的な輸送力の向上が実現しました。これも489系がかなり貢献していることは疑いないところです。
ちなみに、上越線経由の「はくたか」、増発されることはなく、昭和53(1978)年まで1往復体制を堅持していたのですが、その理由は恐らく、ふたつあろうかと思われます。
ひとつは、489系のおかげで12連の大編成が碓氷峠を通過するルートでも運転が可能になったこと。
もうひとつは、「はくたか」を1往復にとどめたのは、向日町運転所所属の485系に生じる不具合を最小限に抑え、それによってダイヤ乱れなどのリスクを最小限に食い止めたと思われることです。
「白山」はさらに、昭和48(1973)年にはもう1往復増やされ、3往復体制となり、さらに東京と北陸を結ぶパイプは太くなっていきます。

489系の登場により、対東京の特急網は飛躍的な充実を遂げました。
次回は、対大阪・名古屋の列車について見て参ります。