その21(№2864.)から続く

折に触れて述べていますが、スピードアップの要請は、東海道区間よりも、実は山陽区間の方が切実でした。言うまでもなく、その理由は福岡空港と大阪(伊丹)空港の立地。両空港とも都心部からのアクセスが良好であることから、新大阪-博多間の新幹線のシェアも圧倒的なものではなかったからです。
そこで、山陽区間における更なるスピードアップを実現し、かつ東海道区間へ乗り入れて東海道・山陽新幹線全体でのスピードアップを実現させようという、実に意欲的な車両が、JR西日本の手によって生み出されることになります。
これが言うまでもなく、あの500系。500系に関しては、既に様々なところで語られていますので、当記事で今さらそのスペックを詳述することはしませんが、特筆すべきはその外観。先頭部は実に15mにわたって絞り込まれており、しかもそれは水鳥の嘴か、戦闘機のような流麗かつ鋭い形状。勿論、この形状は0系や100系とも、そして300系とも全く異なるものであり、この形状だけでも見る者の度肝を抜きました。500系は車体の断面積を小さくするため、円筒形に近い車体断面を採用、ホームから見ると上下に大きく窄まっている車体は、もはや鉄道車両のそれではない印象がありました。最後に何といっても最もインパクトがあったと思われるのは、外板塗色。300系ですら白をベースとした車体なのに、500系はグレーをベースに窓周りを濃いグレー、窓下と屋根に300系と同じ青色を配するデザインで、他の車両とは一線を画するものとなっています。
ただし、東海道区間への乗り入れのため、定員確保は至上命題とされ、そのため便所・洗面所の配置を見直したり、先頭車の運転台寄りの客用扉をなくしたりして、座席定員は300系と同等の1324人(普通車1124・グリーン車200)を確保しています。しかしやはり、300系などとは完全な共通化ができず、また両先頭車の客用扉が1か所だけという乗降性の悪さも欠点でした。後にこれらは、500系が東海道区間から締め出される要因ともなってしまいます。

500系はまず16連1本が投入され、平成9(1997)年3月から新大阪-博多間の「のぞみ503・500号」で運転を開始、300km/h運転の威力を生かして、同区間を岡山・広島・小倉のみの3駅停車で2時間17分と、300系使用列車より15分短縮しています。
そして同じ年、11月29日のダイヤ改正から、1日3往復だけですが東海道区間への500系の乗り入れを開始、東京-博多間の所要時間は遂に5時間を切り、4時間49分となりました。この4時間49分という所要時間は、今のところN700系使用列車でも更新されておらず、現在に至るまで東京-博多間所要時間のレコードとなっています。ただし、東海道区間では、さしもの500系も270km/hが限界でした。これは東海道区間では急カーブが多いことなどで、それ以上のスピードアップが難しかったからです。
この改正では、東海道区間の「こだま」の0系ビュフェ車の営業が停止され、新幹線開業以来一時的な中断はあったものの、続いてきた「こだま」でのビュフェ車の営業が、開業34年目にして終了しています。このころは100系G編成も「こだま」運用に進出してきていましたが、このカフェテリアも営業を終了しました。また、東京駅6時発、500系使用の「のぞみ1号」が、新横浜・名古屋・京都停車で東京-新大阪間2時間30分運転が可能になったため、名古屋・京都を通過する「のぞみ」が廃止され、物議を醸した「名古屋飛ばし」が終焉を迎えます。
ちなみに、この改正では九州ブルトレの「はやぶさ」「富士」がそれぞれ熊本・大分までの運転となり、鹿児島・宮崎両県が東京直通列車を失っています。

平成9年という年は、もうひとつの新系列車両が登場した年でもあります。それが、300系に代わる「のぞみ」用車両として、JR東海・JR西日本が共同開発した700系の試作編成でした。700系は、500系が特に東海道区間でオーバースペックだったためか、性能の適正化と旅客の快適性向上に主眼が置かれていて、車体形状や座席定員は300系と同一、最高速度は300系と500系の中間の285km/h(山陽区間のみ)に設定されました。
700系で目を引いたのは前頭形状で、日本刀の切っ先のような300系とも、戦闘機のような500系とも異なる、よく言えばユーモラス、悪く言えば深海生物のような「キモい」風貌で現れました。これはトンネル微気圧波対策のため、トンネル突入時の気流の変化をシミュレートし最適な形状を採用したものです。そして運転台部分を出っ張らせることで、先頭車が最後部に来たときの気流の流れを改善することにも成功しています。つまり、出っ張りの部分がそのまま飛行機の垂直尾翼の、出っ張りの横の部分が同じく水平尾翼のそれぞれの役割を果たし、気流を安定させて揺れを抑えるというもので、300系で問題となった最後部車両の揺れは、700系で劇的に改善されています(500系は最後部が窄まる一方なので問題はなかった)。
このように見てくると、700系の「キモい」風貌にも実用性と必然性があることがよく分かります。
ただこの700系、JR西日本が500系を追加投入している過程で試作編成が登場していますので、いくら「共同開発」とはいっても、これはJR東海の主導だったのでは?と、外部の人間はどうしても思ってしまいますが、実際のところはどうなのでしょう。

300系だけではなく、500系や700系といった高速対応車両が出てきてしまっては、0系は勿論、100系にも居場所がなくなるのは道理。平成10(1998)年10月の改正では、JR発足時から東海道・山陽新幹線のフラッグシップを務めてきた100系X編成が、とうとう東京-博多間直通「ひかり」運用から離脱、東海道区間の「こだま」に回されてしまいます。言うまでもなく、食堂車の営業は休止。勿論100系X編成は「Wひかり」中心の運用で驚異的な走行キロを叩き出し、十分すぎるくらい働いてきたのも事実ですが、それでもやはりX編成の「格下げ」は、新幹線車両の世代交代のサイクルの速さを、まざまざと見せつける出来事でした。
100系ですらこれでは、0系はなおさら居場所がなくなります。この10月の改正で、0系が充当されていた名古屋-博多間の「ひかり」1往復が100系G編成に変更され、東海道区間から0系「ひかり」の姿が消えました。ちなみに、0系「ひかり」編成は、JR西日本に残った最後の1本がこの年に退役、同編成が消滅しています。

平成11(1999)年3月のダイヤ改正では、700系に量産車が登場し、東京-博多間直通「のぞみ」3往復でデビュー、所要時間は最速4時間57分と500系よりは下回ったものの、快適性の増した車両は好評を博しました。ただ700系では、500系まではあった編成2か所のサービスコーナーがなくなり、いよいよドライに、ビジネスライクになってしまいました。またこの改正では、500系「のぞみ」が2時間おきの運転となっています。
そして同年9月18日、遂に残っていた0系も、東京-名古屋・新大阪間各1往復の「こだま」を最後に、遂に東海道区間での定期運用を終えます。これによって、0系から16連が消滅しました。この時点では山陽区間での「ウエストひかり」が0系で残っていますが、これも翌年3月に700系「ひかりレールスター」が投入され、0系は山陽区間の「こだま」で残るのみとなります。

平成11年は、10月にも小規模なダイヤの変更が行われました。このダイヤ変更は、700系の追加投入により、東京-博多間直通「のぞみ」を全て500系・700系に統一するものです。
これは、東京-博多間直通「のぞみ」から300系が撤退したことを意味します。「のぞみ」登場後7年、博多到達後僅か6年という短期間で、300系がその檜舞台から追われた。このことも、新幹線車両の世代交代の速さを印象づける出来事となっています。
これに相前後して、遂に100系X編成が定期運用を外れ退役。もはや性能的にも完全に旧型と化した100系は、このあと急速に勢力を縮小していくことになります。

その23に続く