現在の「のぞみ」を中心とした、東海道新幹線の列車体系。
その萌芽が見られたのが、「のぞみ」登場1年後の、平成5(1993)年3月ダイヤ改正です。

「のぞみ」は、東京-新大阪2時間半のスピードが衝撃を与えましたが、そのスピードの恩恵を山陽区間にも及ぼしたいと関係者が考えるのも無理からぬ話でした。特に、空港の立地条件から航空機利用が不便ではない対福岡の輸送を考えた場合、山陽区間での更なるスピードアップは喫緊の課題ともいえました。
そこで、平成5年のダイヤ改正では、「のぞみ」を東京-博多間直通運転とするとともに、初めてダイヤパターンに組み込み、東海道区間ではのぞみ1・ひかり7・こだま3の「1-7-3ダイヤ」、「のぞみ」は東京発毎時56分となりました。これによって、「のぞみ」が1時間あたり1本が必ず運転されるようになります。また「のぞみ」の山陽区間直通に伴い、これまでJR東海のみが保有していた300系が、JR西日本にも投入されています(3000番代)。
晴れて東京-博多間直通となった「のぞみ」の所要時間は、5時間4分と、5時間の壁に迫るものとなり、これまでの「ひかり」最速だった5時間47分に比べ、43分の短縮となっています。

「のぞみ」という「超特急」が博多に達したことで、ただの「特急」に格落ちしてしまった「ひかり」ですが、それでも1時間あたり1本の東京-博多間直通「Wひかり」は維持されました。ダイヤ改正当初は、直通客の「のぞみ」への転移を考慮したのか、「Wひかり」は広島-博多間が季節列車とされたのですが、流石にこれは露骨な「のぞみ」誘導だという批判があったようで、実際には毎日運転となり、後に定期化されています。当時は現在よりも「のぞみ」と「ひかり」との料金差が大きく、東京-博多間だと1800円の差がありましたから、そのような批判が集まるのも当然といえました。
ただし、「Wひかり」のスピードは6時間10分台と、ダイヤ改正前よりはかなり落ちてしまいます。これは、新横浜や福山など、需要喚起を狙って停車駅を増やしたことで、足の速い「のぞみ」から逃げ切ることができなくなり、山陽区間での「のぞみ」待避が必要となったため、所要時間が増えてしまったためです。それでも「グランドひかり」100系V編成使用の1往復だけは、「のぞみ」に抜かれることなく博多に到達し、所要時間も6時間を下回っています。
このように、これまで東海道・山陽新幹線のフラッグシップだった「Wひかり」がただの「特急」になってしまったことで、「ひかり」の長距離利用客が減少し、それが「ひかり」の食堂車の利用客を減らしてしまうという問題が生じています。時あたかも、バブル崩壊後の大不況の最中。そのような状況下では新幹線の乗客といえども財布の紐を締めるのは当たり前で、食堂車の利用客が減少した理由はそこにもありました。同じ理由で、100系G編成のカフェテリアの利用も減少、登場当時の豊富な品揃えが嘘のような、がらんとしたショーケースを抱えて走ることが多くなったのもこのころからです。
ちなみに、この改正では東京と九州・山陰を結ぶ寝台特急の食堂車の営業が全廃され、所謂「九州ブルトレ」の退潮もこの改正から顕在化していきます。さらに余談を言えば、この年の12月にはJR東日本エリアでのダイヤ改正が実施され、夜行列車廃止の大鉈が振るわれたことで、「九州ブルトレ」だけではなく、夜行列車というジャンルそのものの退潮が強く印象づけられた年といえます。

翌年の平成6(1994)年12月のダイヤ改正では、「ひかり」食堂車の営業を縮小し、特に0系の食堂車の営業は東京-博多間直通の「ひかり45・40号」の1往復のみとなり、0系の退潮が強く感じられる改正となりました。
この改正では、所謂「九州ブルトレ」にも遂に改廃のメスが振るわれ、東京-熊本・長崎間の「みずほ」と東京-博多間の「あさかぜ」各1往復が廃止されました。特に後者は、昭和31(1956)に運転を開始した「寝台特急の始祖」でもあり、鉄道趣味界にはショッキングなニュースともなりましたが、博多行き「あさかぜ」の博多駅頭着の数十分後に東京駅を朝出発した朝一番の「のぞみ」が到着してしまうようでは、もはや存在意義を失ったといって差し支えないのでしょう。「のぞみ」登場はある意味、「九州ブルトレ」に引導を渡してしまったという見方も成り立ち得ます。

0系の食堂車の営業は、平成7(1995)年1月17日早朝に発生した阪神・淡路大震災による新大阪-姫路間の路線分断により、事実上その前日で終えています。新大阪-姫路間は同年4月20日に復旧し、その日から以前のダイヤに戻ったのですが、「ひかり45・40号」は100系G編成使用に改められてしまいました。さらに同年7月18日には東京駅を発着する0系「ひかり」がなくなっています。
このころから、JR東海では「のぞみ」増発用ではなく、0系の置き換え用として300系が投入されていきました。東海道区間では0系のJR東海所属編成が減少、「こだま」も一部をJR西日本の「ひかり」用編成で賄うようになりました。実はJR西日本所属の「ひかり」編成は、平成3(1991)年から指定席車となる車両を中心に3列席を回転可能にするなどのリニューアルを施し(0030番代)、今後も「ひかり」に投入することを目論んでいたようですが、やはり東海道区間の高速化と世代交代の速さには抗えなかったようです。

平成8(1996)年3月のダイヤ改正では、「のぞみ」を1時間当たり2本に改め、ダイヤパターンも「2-7-3」となります。ただ「ひかり」「こだま」の待避回数が増えるのは得策ではないため、博多直通「のぞみ」の救済を兼ねて、毎時56分発の博多直通「のぞみ」に続行する形で毎時00分発新大阪行きのスジを貼り付けています。ただし実際には、00分発の「のぞみ」が設定されたのは8時台と19時台だけで、残りは増発余裕を持たせた「影スジ」となっています。
それよりもこの改正で特筆されるのは、名古屋-新大阪間を各駅停車とした「ひかり」を1時間あたり1本設定したことと、それによって「こだま」の名古屋-新大阪間を、やはり1時間あたり1本カットしたことです。これによって、東海道区間で毎時2本を堅持し、途中駅の需要に応えてきた「こだま」が、1時間あたり1本が新大阪行き、1本が名古屋行きとなりました。これは勿論、名古屋-新大阪間では乗車率が落ちる「こだま」の合理化でもあるのですが、このようなダイヤ設定が可能になったのは、最高速度が高く取れるだけではなく加減速性能にも優れた300系が増えたからでもあります。この300系の「逃げ足の速さ」によって、「のぞみ」も高速運転できるわけで、抜かれる側の列車にも高性能が要求されるわけですね。
こうなってしまっては、流石に0系の出る幕は東海道区間ではなくなり、「こだま」に運用されるのみとなります。山陽区間では相変わらず「ウエストひかり」や6連の短編成で意気軒昂だった0系ですが、これはそのまま東海道と山陽の事情の違いといえようかと思われます。JR東海所属の0系「ひかり」編成が姿を消したのもこの年です。

このころ、JR西日本では、東京からのお客をいかに西まで引っ張るか、山陽区間のお客をいかに東に引っ張るかを考え、山陽区間の最高速度を300km/hの大台に乗せる、それまでの新幹線とは全く異なる風貌の車両を開発・投入する計画が具体化します。それがあの500系ですが、次回はその500系登場の顛末を。

-その22(№2867.)へ続く-