今回は東武の通勤車の中でも格段の「変わり者」2系列を取り上げます。それが2080系と1800系です。いずれも従来の吊り掛け駆動の車両を置き換えるための車両であることは共通していますが、その出自はまるで異なっています。

1 2080系
昭和63(1988)年以降、東武は日比谷線直通用車両の代替として20000系の投入を進めてきましたが、初代の直通車両2000系の中でも、昭和46(1971)年に8連化のために組み込んだモハ2550-モハ2650のユニットは経年20年を超えていなかったため、直ちに廃車とはせず、有効活用されることになりました。
当時の東武では、野田線の3000系列の置換えを計画していたこともあって、2000系からの改造車は野田線への投入を前提に6連を組むこととされ、両端の先頭部は改造によって運転台を取り付け、20000系に酷似したスタイルになっています。そして、当時の野田線の変電所の容量その他の要因から、種車のオールMを4M2Tに改めています。編成構成は、両端のM車ユニットが2両のT車を挟む形になっています。
この改造車は「2080系」と命名され、昭和63年に2編成12両が落成、野田線に配属されました。
しかし、この車両、最初こそ沿線住民には「新車だ!」と好意的に迎えられたものの、その後はあまり評判のいい車両ではなかったようです。
その最大の要因は、冷房装置を搭載していなかったことです。2000系を20000系で置き換えるきっかけのひとつになったのが、2000系が冷房装置を搭載していなかったことからすると、冷房改造を施しても良かったのでは…と思います。ところが、2000系は床下が一杯なのと、軽量構造のため屋根上に冷房装置を載せられるほど強度がなかった関係で冷房化が不可能だった車両ですから、そのような車両を有効活用する発想自体、そもそも無理があったのではないかと思います。当時でも既に、冷房の搭載は当たり前になっていましたから。その他では、地下鉄直通用車両の出自ゆえに、側窓を開けることができる大きさが8000系などより小さく、窓だけでは十分な換気が難しかったことも、2080系の印象を悪くした要因といえます。
また、運転面では、MT比率をいじってしまったことで加速が鈍くなってしまい、運転しにくくなってしまったという乗務員の声もありました。そりゃそうでしょうね、2000系はオールM車。オールM車はオールM編成でこそ本来の性能を発揮するもので、そこにT車を挟んでしまったら、そりゃ所期の性能など得られるわけがありません。余談ですが、京急の700形もT車を当初の設計より1両増やしてしまったためにM車の負荷が増加し、所期の性能を発揮できなかったのは有名な話なのですが、なぜこの京急の轍を東武が踏んでしまったのでしょう。
このような乗客・乗務員双方からの評判の悪さにより、当初は6編成改造するはずだった2080系も、僅か2編成の改造だけで終わり、その2編成も平成4(1992)年には退役するという、実に実働期間の短い車両となってしまいました。何しろ、本家の2000系よりも退役時期が早くなっていますから。
なお、2080系の投入によって野田線の3000系列を置き換えるという当初の目論見は外れ、実際に3000系列を置き換えたのは、5000系列の転入でした。これによって、野田線所属車両全車が20m級車両に統一されました。つまり、3000系列を置き換えることができて、かつ車両の全面大型化は達成できたものの、吊り掛け駆動車が残ってしまうという、当初の計画からすれば不十分な結果になってしまいました。5000系列が野田線から撤退したのは、2080系の退役から実に12年後、平成16(2004)年のことです。

2 1800系
1990年代に入り、今度は5000系列の置換えが俎上にあがります。流石に東上線池袋口や本線の浅草口などからは同年代初頭に撤退し、野田線からも撤退したものの、同年代半ばを過ぎても、群馬県内などのローカル区間に多く残っていました。そこで東武は、平成8(1996)年から本線系統に30000系を投入し、捻出した8000系を使って、群馬・栃木地区に残る5000系列の置き換えに着手します。
その際、200系の投入で「りょうもう」運用から外れていた1800系も活用されることになり、平成13(2001)年、通勤用車両として3本が改造されることになりました。
その改造内容は、

・中間車2両を抜いて4連化。
・外板塗色は鋼製通勤車の標準色である白地に濃淡青帯に変更。
・前面のヘッドマーク部分にはLED式の行先表示を取り付け。
・立席スペース確保のためデッキと一部座席を撤去。
・窓のカーテンを撤去し遮光フィルムを貼付。

といったもので、まさに寝台特急から近郊電車に改造された、国鉄→JRの715系を彷彿とさせます。
ただし、改造を最小限にしたためか、ドアの増設やロングシート化などは行われず、座席の撤去された跡は立席スペースになっていました。
管理人は平成16(2004)年のGW、この車両に佐野線で乗ったことがありますが、座席が撤去されただけのスペースや、悪戯で部分的にはがされた遮光フィルムなど、非常にみすぼらしく見えたのを強烈に覚えています。管理人はかつて715系を「アイドル歌手の末路を思わせるような電車」と評したことがありますが、この電車の落魄ぶりはそれどころじゃなかったように思いました。
この通勤型1800系は、当初佐野線や小泉線で運用され、5000系列を淘汰しましたが、平成18(2006)年から佐野線でワンマン運転を開始したため、その後は小泉線に集められました。しかしその小泉線も同年9月からワンマン運転を行うことになったため、ワンマン運転に対応できない1800系は使い道がなくなり、遂に同年7月、3編成とも運用を離脱しています。その後は活用されることもなく、翌平成19(2007)年には解体されてしまいました。
通勤車としての使用は、たったの6年でした。

2080系も1800系も、改造後は10年に満たない使用期間だったということに、改めて驚いてしまいます。2080系の早期の退役は、冷房の非搭載などサービスレベルの問題と運転上の取り扱いの問題があったのでしょうが、1800系のそれは運転上の取扱いの問題はなく、むしろ「必要最小限の改造しかしなかったから」ということが理由として挙げられようかと思います。1800系は最初から「長く使う気はなかった」のでしょうね。それも715系と共通する運命を感じます(実際には715系は長く使われましたが)。
東武の通勤車の歴史の中に、彼らのような「キワモノ」がいた。このことも、記憶にとどめておきたいものです。