昭和39(1964)年の直通運転開始時は12分に1本、昭和46(1971)年の8連化後は15分に1本(平日日中)という運転間隔で運転されてきた、東横線の日比谷線直通列車。
東武側もそのくらいの運転間隔だったのですが、東急側よりも東武側からの流入が大きくなっていったため、東武側からの直通列車が増え続けたのに対し、東急側からの列車はそれほど増えないままでした。昭和63(1988)年、東急側の折り返し駅が日吉から菊名に変更され、その2年後には朝夕を除いて日吉折り返しに戻されましたが、本数は変化がありませんでした。
その本数に変化が生じたのが、平成13(2001)年3月28日のことでした。

この日、東急では初めてとなる「特急」の運転が開始されました。それまでは、東横線における速達列車は急行のみだったのですが、その急行を凌ぐ上位の列車を作ったわけです。
実は、この日以前にも、東横線における特急運転の噂が何度か立っては消えています。その中には、愛好家や沿線住民の願望が噂になったときもあれば、会社が動こうとしたこともあります。後者の例としては、昭和29(1954)年に東急が「青ガエル」先代5000系を投入したときのことが挙げられます。このとき、東急は特急、又はそれに代わる急行以上の速達列車の運転を検討したといわれています。しかし、昭和29年当時は緩急接続のできる駅が元住吉と日吉しかなく(自由が丘に待避線ができたのは先代5000系投入の5年後、菊名はさらにその13年後)、断念したことがあったとか。
それから半世紀近くの時を経て「特急」が生まれた理由については、いくつかの要因が指摘されています。

① 東横線の利用客が目黒線に転移して、線路容量に余裕が生じたこと。
② 急行の停車駅が増えすぎて、優等列車の速達性が失われていたこと。
③ ライバル、具体的にはJRの機先を制する必要に迫られたこと。

この1年前の8月から、目黒-田園調布-武蔵小杉間を1本の「目黒線」として運転されるようになり、しかも営団(当時)南北線・都営三田線と相互直通運転を開始したことから、都心直通の乗客の流動が目黒線へ転移し、東横線の混雑がかなり緩和されたといわれています(①)。さらに、目黒線運転開始に伴い、それまで目蒲線だった多摩川-蒲田間を「東急多摩川線」として分離したことで、同時に多摩川を急行停車駅としたため、自由が丘・田園調布・多摩川と3駅連続停車になってしまいました。それ以前にも、東横線の急行は停車駅が多いとして不評だったため、急行以上の優等列車の運転開始は熱望されていました(②)。
しかし、①②よりも大きな要因は③でしょう。この年の12月からJRは「湘南新宿ライン」の運転を開始しますが、これが渋谷-横浜間で競合関係になることから、JRの機先を制する意味があったといえます。

特急の停車駅は、自由が丘・武蔵小杉・菊名・横浜。日比谷線との接続駅である中目黒には当初は停車していませんでした。ひょっとすると、運転当初は渋谷と横浜・桜木町との直結にこだわり、日比谷線との接続をあえてしないことで、乗客を分けていたのかもしれません(平成15年3月19日から、停車駅に中目黒を追加)。
特急は15分間隔(4本/h)とされ、従前どおり急行も同じ15分間隔で運転されたため、渋谷-横浜間の速達性は大幅に向上しました。

特急運転開始の裏で、日比谷線直通列車には劇的なリストラがなされます。
日比谷線直通列車は、前述のとおり長らく15分間隔(平日日中)で運転されてきましたが、特急運転開始と同時に、30分間隔(2本/h・同上)に減便されてしまいます。減便に関しては、前述した「目黒線への転移」という要因が大きかったのではないかと思われます。目黒線は、その先が営団(当時)南北線と都営三田線という2つの路線とつながっていますが、都心直通客がかなりそちらに流れてしまいました。このため、都心直通のチャンネルとしての日比谷線直通列車の地位が、相対的に低下したということです。
ところで、日比谷線と東横線の接続駅が中目黒になったことについて、東急が渋谷駅で直に接続させたくないと考えたからだといわれていますが、日比谷線との直通は渋谷駅の混雑緩和が主目的であり、そのためには渋谷駅で直につないでしまっては無意味だと考えられたことによります。
ただ、この選択は通勤通学客が多い平日朝夕にはよいのですが、そうではない平日の日中や休日には、必ずしも旅客流動の実態に合わなかったことも事実です。管理人はこのころの日比谷線直通列車を実際に見ていますが、平日日中や休日の日比谷線直通列車が中目黒駅に到着すると、多くのお客が渋谷方面への乗り換えのために下車してしまい、実際に日比谷線へ入っていくお客は僅か、という状態は常に見られました。
このことは案内放送などでも徹底されていて、駅の接近案内放送や車内の放送では、「この電車は日比谷線直通電車です。代官山・渋谷には参りません」と何度も繰り返されていました。現在は駅の接近案内放送では言わなくなりましたが、車内放送では繰り返しています。

ただ、日比谷線直通列車が減便された後も、朝夕ラッシュ時の中目黒駅の混雑は相変わらずでした。たまにダイヤが乱れて直通が打ち切られたりすると、中目黒駅のホームには日比谷線へ乗り換える乗客が溢れかえり、危険な状態になることもしばしばありました。それだけ、日比谷線で都心へ向かう通勤通学客が多かったこともあります。そのためもあるのか、平日朝夕は日比谷線直通列車の本数は多くなっており、平成13年の減便の際も、ラッシュ時の本数はそれほど減っていません。
ちなみに、東急からの直通列車が減便されたのと同時に登場したのが、東急車による日比谷線内運用です。それまでは、東横線から日比谷線へ入った列車は、必ず折り返して東急線内に帰ってきたものでしたが、このときから中目黒で折り返す運用が登場し、中目黒の折返線で営団03系や東武の20000系列と並ぶ光景も見られるようになりました。それと同時に、南千住の車庫に日中入庫する東急車の運用も登場しています(平日の85K運用)。そして当然のことながら、東急車の運用数そのものも減ってしまっています。

さらに、日比谷線直通列車の有用性を根底から揺るがしたものは、平成22(2010)年のJR武蔵小杉駅開業でした。JRの武蔵小杉駅そのものは、南武線の駅として従来から存在してきましたが、このとき開業したのは、南武線ではなく品鶴貨物線(横須賀線や湘南新宿ラインの走るルート)上にホームを作ったものです。本来の武蔵小杉駅からはかなり離れていますが、それでも横須賀線で新橋や東京へ、湘南新宿ラインで新宿や池袋へ直行できることから、利便性は大幅に向上しています。当然のことながら、日比谷線直通列車の地位はさらに低下してしまいました。
このころから、東横線と副都心線との直通運転計画が具体化し始め、そのこともあって、鉄道趣味界では日比谷線直通列車の去就が注目の的となり始めます。

そして遂に今年7月、東急と東京メトロの双方から、日比谷線直通列車の廃止が正式に発表されました。東急初の都心乗り入れは、50年目で終止符を打つことになります。

次回は、東急側折返し駅の変遷をもう少し詳しく見ていきます。

その9(№2365.)に続く

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