昭和39(1964)年の開始以来、東急7000系によって続けられてきた日比谷線直通ですが、日比谷線直通以外の東横線の使用車両について、大型化の動きが出てきます。
それが、昭和44(1969)年に登場した8000系です。この8000系は、東急の営業車として初めての20m級大型車(事業用車両としては旧型車両の台枠を再利用したレール運搬車があった)です。
8000系は東横線ではなく、当時建設に着手した新玉川線(渋谷-二子玉川間)用の車両として設計されていました。しかし、現実の投入先としては東横線が選ばれ、最初に5連×5本の25両が製造され東横線に投入されました。ただし、その後新玉川線の路線の状況に鑑み、MT比率を見直し先頭車を電動車にした方がよいということで設計変更の必要が生じたため、両先頭車を電動車とした兄弟車・8500系が昭和50(1975)年に登場しています。
その後、東横線には8000系編成は勿論、兄弟車の8500系や軽量ステンレス車体の8090系が続々と投入され、7000・7200系以前の18m級の車両は他線区に移されていきます。
8000系投入前の東横線は、戦前型の古豪3450形や、戦災復旧車3600系が少数ながら残っていましたが、昭和47(1972)年8月には最後の3450形の5連が田園都市線(当時は大井町-二子玉川園-長津田以遠を田園都市線と称した)に移籍し、東横線から吊り掛け駆動の車両が一掃されます。
その後も8000系の導入が進められ、今度は「青ガエル」先代5000系が、昭和56(1981)年3月限りで東横線を去り、この時点で東横線の全車ステンレス車化が達成されました。またこのとき、東横線からは先代6000系も消え、同線は7000系以降の車両に統一されています。
8000系は最初の5本は非冷房車でしたが、その後投入された4本は冷房準備車、さらにその後の1本は東急最初の新製冷房車でした。東横線向けとしては5連×21本が製造され、その後新玉川線向けの改造や編成の増強などを経て、最終的には8連になっています。

8000系の導入が進められたのは、20mという大柄な車体も魅力でしたが、1両あたりのドア数が増えることによる乗降性の向上もあったように思われます。
昭和50年代の中ごろ、6連でありながら8000・8500系が急行運用につく機会が多かったのですが(当時の急行編成の標準は7000系の8連)、1編成あたりのドア数は8連の7000系と同じ24か所。これが、昭和55(1980)年デビューの8090系になると、同系は7連でありながらドア数は7000系より多い28か所となっています。
それでも7000・7200系の8連は、収容力の大きさから急行に、さらに昭和57(1982)年以降は各駅停車にも活躍してきましたが、流石にドア数の問題やドア位置の問題(整列乗車の妨げになる)、一部の7200系を除き冷房がなくサービスレベルが劣るなどの問題があったためか、昭和58(1983)年を最後に、急行から18m車は放逐され、その2年後には各駅停車の運用もなくなり、18m車は日比谷線直通列車に専従することになりました。

…こうなると、日比谷線を20m規格で作っておけば(=東武の言うことを聞いておけば)よかったと思えますけど、それは現在の目で歴史を見た評価なんでしょうかね。

というわけで、7000系のみが東横線最後の18m車として、日比谷線直通列車に専従するのですが、7000系はオールM方式のため床下機器がぎっしりと詰まっていて、とても冷房用の機器を積めるほどの余裕がなく、さりとて昭和も60年代になると、冷房のないことがサービス上マイナスと評価されるようになりました。ちなみに、7000系の一部がVVVFインバーター制御に改造されたのは(7700系)、制御装置を換装しないと冷房化が不可能だったため、冷房化を可能にする目的もあったようです。
それならば7700系を日比谷線直通に使えば…とも思うのですが、当時は営団も東武も日比谷線用の新車を用意することが決まっていました。営団はご存知のとおり03系。東武は20000系だったのですが、両者は同じ昭和63(1988)年の6月に営業運転を開始しました。
東急もここに及んで、遂に日比谷線直通用の新型車両を投入することになります。
これが現在まで活躍が続く1000系ですが、当時東横線に投入が進められていた9000系の兄弟車という位置付けとなっています。1000系は客用扉や前面・側面の窓ガラスなどが9000系と同一となっていて、それによってコストダウンを図っています。
ただ、9000系が4M4Tとされたのに対し、1000系は両先頭車以外を電動車とした6M2T、1台の制御装置で2両分の電動機を駆動する1C8M方式とされ、ここでもコストダウンが図られています。そして待望の冷房装置も付きました。
しかし、1000系はワンハンドルマスコンを採用したためか、営団の乗務員訓練に時間をかけ、結局営業開始は昭和63(1988)年の年末と、かなり遅くなっています(あるいは、管理人の記憶だと翌年からかもしれません)。
その後、1000系は平成2(1990)までに8連×8本が投入され、7000系を置き換えました。7000系の日比谷線直通用編成は9本でしたから、完全に置き換えるにはもう1編成必要ですが、東急はここで驚くべき編成を投入します。
それは、3M1Tを2本つなげた4+4の8連でした。制御装置を各車ごとに搭載した1C4M方式とされ、しかも中間に組み込まれる先頭車は本来のものと顔が違うことも、愛好家の興味を引きました。この編成は、当時4連で運転していた目蒲線との予備車の共通化をもくろみ、この形態で製造されたもので、本来の8連貫通編成と区別するためか「1000N系」と呼ばれることもあります。なお余談ですが、その後池上線用に3連で登場した仲間は、「1000N’系」と呼ばれています。この1000N系は2本(4+4が2組)製造されました。

1000系・1000N系は日比谷線直通に従事してきましたが、平成12(2000)年の目蒲線分断後やその翌年の特急運転開始に伴う日比谷線直通列車減便で所要編成数が減少し、運用を離脱するものが現れ始めます。1000N系は1本が池上線に転籍、残った1本は8連貫通編成を作りますが、その後他編成と構成が異なることが嫌われたためか数年前に退役しています。8連貫通編成も1編成が運用を離脱しました。
そればかりではなく、東急車の日比谷線内運用、つまり中目黒で折り返して東横線に戻って来ない運用や、昼間南千住の車庫に取り込まれて昼寝する運用なども出現しました。

現在1000系8連貫通編成は6編成(1003・1006編成は運用離脱)、平日5・休日4編成使用となっています。来年3月までこの体制で推移することになりますが、日比谷線直通廃止後は彼らがどうなるのか、注目したいところです。

-その8に続く-

※ 当記事は、以前に書き貯めた記事の自動公開です。
※ 平成24年11月7日、本文を訂正しました。