前回触れましたが、東急が日比谷線直通用に用意したのは、7000系という日本では初のオールステンレスカーでした。それまでのステンレス車は、骨組を普通鋼で構成し外板のみステンレスにするスキンステンレス構造だったのですが、骨組までをステンレスにすることで腐蝕を考慮する必要がなくなり軽量化と長寿命に寄与しています。実際、7000系トップナンバーの車体は、現在クハ7910号として池上線などで活躍中ですが、昭和36(1961)年に製造され半世紀を超えた今もなお、殆ど車体の劣化が見られないそうです。
7000系は、初期の「高性能車両」の定石どおり、いわゆる「オールM」を採用し、編成あたりの出力を確保しています。
7000系が製造されたのは、勿論当時の東急車輛(現総合車両製作所)ですが、電装品は東洋・日立の2社のものが採用され、スペックも多少異なっていました。東洋製のものは、主電動機の出力が1基当たり60kwであるのに対し、日立製のもののそれは1基当たり70kwとなっていました。これは、後者の電装品を搭載した編成を東横線で急行列車に使用するため、出力を大きくしたといわれています(※)。ただし加速度・減速度はいずれも4.0km/h/sと高く取られていました。

※=日立と東洋があべこべだったので、本文を訂正しました。

7000系は以下の編成が用意され、直通開始に備えました。
(以下の編成の変遷に関しては、前回記事に頂戴した3801F様のコメントを参考にしています)

7011-7128-7127-7008+7007-7012
7013-7144-7143-7142-7141-7014
7015-7016+7009-7010+7017-7018
7019-7140-7139-7130-7129-7020
7021-7110-7109-7108-7107-7022
7025-7118-7117-7116-7115-7026
7027-7122-7121-7120-7119-7028
7029-7126-7125-7124-7123-7030
7035-7148-7147-7146-7145-7036

先頭車だけで6連を組成した「ブツ6」があったのが驚きですね。今仮に先頭車だけの「ブツ8」が日比谷線に入ったら、恐らく収容力不足で大顰蹙でしょうが、当時は混雑がそれほどシビアではなかったんでしょうかね。ただ3801F様によれば、9本中6本までしか直通に使用していなかったそうなので、この「ブツ6」編成に関しては、少なくとも朝ラッシュ時に北千住に到着する運用からは極力外されていたのではなかろうかと思われます。
ちなみに、その後この「ブツ6」編成は、直通開始後間もなく、同年10月の中間車増備に伴ってこうなったとか↓ さすがに「ブツ6」は扱いにくかったのでしょう。

7015-7152-7151-7150-7149-7018

要は中間の先頭車がごっそり抜かれてしまったので、両端の先頭車が1番違いではなくなっているのですね。

その後、昭和46(1971)年には8連化されています。
以下は昭和60(1985)年当時の7000系日比谷線直通編成ですが、これら編成の渋谷寄り先頭車の車号は、管理人は今でも諳んじています。

7011-7128-7127-7130-7129-7008+7007-7012
7013-7144-7143-7142-7141-7010+7009-7014
7015-7152-7151-7150-7149-7042+7041-7018
7019-7140-7139-7110-7109-7108-7107-7020
7021-7170-7169-7154-7153-7016+7017-7022
7025-7118-7117-7116-7115-7064+7063-7026
7027-7122-7121-7120-7119-7062+7061-7028
7029-7126-7125-7124-7157-7158-7123-7030
7035-7148-7147-7146-7145-7044+7043-7036

7019F・7029Fが8連貫通編成でそれ以外は6+2の編成であること、7021Fに中間車のラストナンバー7170が、7025Fに先頭車のラストナンバー7064がそれぞれ組み込まれていました。懐かしいですね(^^

前後しますが、昭和54(1979)年ころから、日比谷線直通運用に従事する7000系編成には、側面に「日比谷線直通」のサボが取り付けられるようになりました。「急行」の赤サボとは異なり、正面には何も取り付けられませんでしたが、紺色の地に白字で「日比谷線直通」というサボを初めて見たときには、管理人も驚きました。
ちなみに、反対側の東武では、同じような紺地に白字の「日比谷線直通」という表示を側面にするようになりましたが、東急とは異なりステッカーとされました。これは、東武の2000系は日比谷線直通運用にほぼ専従しているためで、東横線で地上運用を務めることもあった東急7000系との違いでした。

7000系は元気に活躍を続けてきましたが、流石に昭和の末期になり、冷房がないなどそのスペックが時代に即さなくなってきたため、昭和63(1988)年から1000系を投入し、7000系を徐々に起き換え始めます。

平成2(1990)年1月ころの7000系最末期はこんな編成でした↓

7025-7118-7117-7116-7147-7148-7115-7026
7029-7126-7125-7124-7157-7158-7123-7030

8連貫通編成2本になっています。

結局この翌年限りで7000系は日比谷線直通運用から退き、7700系に改造されたり、弘南鉄道や福島交通など他社に譲渡されたりしました。7000系のまま4連を組んで目蒲線で活躍したものもありましたが、こちらは秩父鉄道に譲渡されて姿を消します。最後に残ったのはこどもの国線用の7057-7052で、これは東急の鉄道線上に残った最後の非冷房車でもありました。この2両は、こどもの国線の通勤線化に伴い、平成11(1999)年7月限りで、横浜高速鉄道のY000系に置き換えられて姿を消しています。

現在、東急の日比谷線直通運用は1000系が独占していますが、これも来年3月で任を解かれ、その後の去就は決まっていません。ちょうど50年目を迎える年に終止符を打つ日比谷線直通。「日常」が激変するときは、すぐそこまで迫っています。

その7(№2352.)へ続く

※ 当記事の作成に当たっては、3801F様より頂戴したコメントに多くを負っております。この場においてお礼申し上げます。