その6(№2108.)から続く

153系が投入されてからというもの、スピードでは京阪間・阪神間・神姫間とも並行私鉄に圧倒的な差をつけた新快速。
しかし、特に競争が熾烈な京阪間では、京阪・阪急の車両面の進歩が目覚ましく、153系を脅かしていました。
まず、淀川の反対側を走る京阪は、特急を冷房完備・オール転換クロスシートの3000系「テレビカー」で揃え、快適な居住性を提供しました。
これに対し、京阪が3000系を投入した時点では、阪急では2800系を特急に使用しており、同系の全車冷房化も未達成でした。それが、153系投入後急ピッチで冷房改造を実施、さらに昭和50(1975)年には、決定版といえる特急用車両・6300系を投入しました。6300系は、2800系がドア間だけ転換クロスシートで車端部ロングシートだったのを改善し(京阪3000系は全部転換クロスシート)、ドアを車端部に寄せて転換クロスシートを並べ、料金不要の列車としてはハイグレードな車両でした。阪急が6300系を設計したとき、意識したのは国鉄ではなく京阪3000系だったのは有名な話ですが、ドアを車端部に寄せたのは、間違いなくデッキ付きの153系を意識したものだと思われます。

京阪や阪急が特急列車をこのようなデラックスな車両で固めたことで、国鉄の153系新快速は、スピードのみがほぼ唯一のセールスポイントという状態になってしまいました。京阪や阪急の転換クロスシートに比べれば、153系の4人掛けボックスシートは、どうしても居住性では一歩譲るからです。また、153系は初期の新性能電車であり、車体の老朽化対策が不十分だったなどの理由があって、老朽化も進行、車両そのものの置き換えを検討せざるを得なくなります。
しかし、そこに立ちはだかったのは、当時の国鉄ではほぼ金科玉条だった「全国一律」「標準化」の壁。転換クロスシートといえば往年の「並ロ」、つまり優等車の装備でした。普通車でそのような座席を導入しているのは特急用くらいのもの。当時の国鉄では、特別料金を徴収しない普通列車扱いの新快速にそのような車両を投入することは、極めて異例のことでした。
だからといって、当時の近郊型の標準だった113系、あるいはその兄弟車では、到底並行私鉄、とりわけ京阪や阪急に対する勝ち目はありません。113系は3扉セミクロスであり、2扉オール転換クロスシートの両私鉄とは圧倒的な差があるからです。
というわけで、国鉄本社は大阪鉄道管理局の意向をくみ、「新快速」用に特化した、独自設計の車両を投入することになります。これが現在まで活躍が続く117系ですが、以下のようなスペックを持っておりました。

・2扉オール転換クロスシート、1編成6連とする。電装品や冷房装置はオーソドックスなものだが、強制換気装置を搭載している点が異なる。
・台車は空気バネを採用、高速走行と乗り心地に配慮。
・前面はモハ52系を思わせる流線型で、非貫通とする。
・トイレは1編成1か所とし、洗面所は設けない。
・外板塗色は往年の「関西急電」を彷彿させるクリーム地にマルーンの帯。

形式こそ「117系」で近郊型の一員とされていますが、にもかかわらず優美な流線型の先頭形状は、まさに戦前の「関西急電」モハ52系の再来。車内はモハ52系よりも格段にグレードアップした、オール転換クロスシート(一部に固定席あり)。しかも壁は在来の近郊型はもちろん、特急用にもなかった木目調のシックなもので、ダークブラウンの転換クロスシートとともに、料金不要の普通列車用とはとても思えない、落ち着きのある空間を作り出しています。ただ、2か所の扉は乗降性を考慮した結果か、片開きではなく両開きとされたこと、デッキも洗面所も設けられなかったことなどは、ある意味で「近郊型」としての「分」のようなものを守っている観もあります。
しかし、「関西急電」から「新快速」への80年近い歴史の中で、京阪神間用に特化して製造された車両は、戦前のモハ52系と半流43系、そしてこの117系です。現在新快速用とされる223・225系ですら、新快速の専属ではありませんからね。このことは、117系を語るにあたって、いくら強調してもしすぎることはないだろうと思います。
117系で唯一、物足りなかったのが速度性能。やはり「近郊型」とされたためだったのか、最高速度は110km/hに抑えられましたが、これが後々スピードアップの桎梏となってしまったからです。

117系は、現車が昭和54(1979)年にデビューし、「シティーライナー」という新しい愛称も得て、153系に交代して走り始めます。
ここでちょっと面白い現象がありました。この「シティーライナー」という愛称、153系に交じってぼつぼつ117系が入ってきたころは、それなりに定着していたようなのですが、153系が完全に置き換えられるころになると、愛称ではなく単に「新快速」という呼び方をする利用者が多数派になってしまったとか。これは「シティーライナー」が定着しなかったことを嘆くのではなく、「新快速」がそれだけブランドとなったことを喜ぶべきなのでしょう。

ともあれ、117系は昭和55(1980)年までには153系を全て置き換えました。153系は、状態の良いものは他所へ転属して状態の悪いものを置き換え、状態の悪いものは廃車になりました。完全置き換えが迫ると、153系の新快速編成は、他所への転属を見越したのか、ブルーライナーカラーではない湘南色に塗られた車両も目につくようになります。昭和47(1972)年、新快速に転用される前の153系が急行「鷲羽」や「とも」などで使用され、これら列車に混色編成が出現したことがありますが、置き換えが間近に迫ると、また混色編成が見られるようになります。「歴史は繰り返す」ですね。
オール117系になった新快速、さぞかし乗客から好評を博した…と思いきや、実際にラッシュ以外でも高い乗車率をキープしているのは京都以東の並行私鉄のない区間だけで、あとは阪神間・神姫間がやや高いくらいでした。当時の阪神間・神姫間は並行私鉄にクロスシートの車両がなかったため、私鉄との運賃の差額を「設備料金」と考えて利用していた層もあったようです。それに引き換え京阪間は…。やはり、いくらハイグレードな車両を導入しても、運賃が高額だと利用が頭打ちになるようです。国鉄もそのことに対する危機感はあったようで、京阪間や阪神間などに特定運賃を設定し、私鉄との運賃差を抑える方策をとっています。

また、117系投入時になっても、複々線の「本社の壁」は未だに残っていて、新快速が朝夕ラッシュ時に走行できない状況は続いていました。
その後、国鉄が「民営化やむなし」と分割・民営化に舵を切ることで、「本社の壁」が崩れていくのですが、そのお話はまた次回…の前に、新快速のライバルたちの物語も取り上げましょう。

その8(№2121.)に続く