その5(№2103.)から続く

昭和47(1972)年3月15日、京阪神間で「新快速」が本格デビューしたわけですが、京阪神間以外でも「新快速」がデビューしました。
その路線とは、大阪・天王寺と和歌山を結ぶ阪和線です。

阪和線は、元は阪和鉄道という私鉄で、モヨ100・モタ300など個性的かつパワフルな車両を揃え、阪和間の最速達列車「超特急」を所要時間45分で運転したという記録が残っています。これは、当時の南海鉄道との競争の結果ですが、その後国鉄に買収され、国鉄の一路線となっています。
その阪和超特急の夢よもう一度…というわけではないのでしょうが、この改正で阪和線にも「新快速」がデビューしました(以下『阪和新快速』という)。

1 阪和間は途中鳳のみの停車。
2 使用車両は113系。ただし塗色は京阪神の153系と揃える。
3 天王寺駅基準で9時~15時の間、1時間当たり1本運転。

これらのスペックで分かる通り、阪和新快速は途中鳳のみの停車となり、所要時分は天王寺-和歌山間45~51分という韋駄天ぶりでした。
ちなみに、戦前の「超特急」の表定速度は、昭和8(1933)年当時で何と81.6km/hにも達し、これは戦前の日本の鉄道としては最速となりました。この最速レコードがいかにとんでもない記録だったかというのは、昭和34(1959)年に151系の特急「こだま」が東京-大阪間を6時間40分で結び、83.46km/hの表定速度を打ち立てるまで、実に26年間も破られなかったことでも分かります。
「超特急」から39年後にデビューした阪和新快速ですが、その最速列車といえども、戦前の「超特急」のタイ記録にはなったものの、「超特急」のレコードを破ることはできませんでした。
阪和間において、45分というレコードが破られるのは、昭和53(1978)年10月以後、特急「くろしお」に投入された381系電車によって阪和間ノンストップ41分となり(この記録を打ち立てたのは、国鉄民営化前夜の昭和61(1986)年11月のダイヤ改正)、実に半世紀以上を要して、戦前のレコードが更新されたことになります。
いずれにしても、113系という、特に高速運転に配慮したわけでもない車両で、戦前の「超特急」と同じかやや遅いだけの所要時分を実現できたことの裏には、高速運転に特化した、阪和電鉄の遺産があったことは、疑うべくもないと思われます。
ただ、運転本数は日中の1時間当たり1本という、少ない本数となりました。

使用車両は京阪神の153系ではなく113系でしたが、こちらは京阪神の113系とは異なり、153系と同じ、白地にスカイブルーの帯を纏った新快速カラーが施されました。阪和新快速に充当された車は、もちろん冷房車で揃えられましたが、当時の阪和線にはモハ40系やモハ72系などの旧型車が多く、これらには冷房などありませんから、そのような車両に比べれば、格段のサービス向上でした。153系と塗色を揃えたのは、ことによると「関西の『新快速』」というブランドイメージの定着を狙ったのかもしれません。
そして、京阪神の新快速と同様、阪和新快速専用のヘッドマークもちゃんと用意されました。京阪神のそれが急行列車のものを模した五角形の大型のものであるのに対し、こちら阪和新快速用は、円板に羽根状の飾りが付けられる凝ったもので、羽根状の部分は赤と白に塗られていました。このデザイン、管理人は写真でしか見たことがありませんが、京阪神の80系の「急電」マークには及ばないものの、113系の白い顔にはなかなか映えていたように思います。
なお、翌年の昭和48(1973)年には関西線も電化され、快速として113系が走り始めますが、こちらはデザインが阪和新快速と同じで帯の色を違えたデザインとなりました。関西線用の113系は、地色は同じですが帯が春日大社をイメージした朱色となり、「春日塗り」といわれています(当たり前ですが、現在のお笑い芸人の春日某とは、もちろん何の関係もありません)。

というように、阪和新快速には、当時の天王寺鉄道管理局も看板列車としてかなり気合いを入れたようなのですが、実際には乗車率はそれほど芳しくなかったようです。
その理由は、1時間当たり1本でしかも日中にしか走らないという本数の少なさや、戦前と同様南海との競合があったのももちろんありますが、最大の理由は直通客自体のパイの少なさでした。阪和間は京阪神間とは異なり、都市間相互を結ぶ需要はあまり大きくなく、その少ないパイを南海と食い合っているという状況でした。
そのため、走り始めてから5年を経過した昭和52(1977)年には、阪和新快速へのテコ入れのためか、途中停車駅を増やし、途中駅の需要にも応えようとしています。具体的には和泉砂川と熊取が停車駅に追加されましたが、停車駅の追加によって所要時分は伸びてしまい、48~51分になっています。
それでも、阪和新快速の利用状況は改善することはなく、結局昭和53(1978)年10月のダイヤ改正に伴い、紀勢線(和歌山-新宮)の電化が完成したことで列車体系が刷新されることに伴って、阪和新快速は廃止されてしまいました。

このように、僅か6年で廃止されてしまった阪和新快速ですが、新快速カラーの113系はその後も残りました。紀勢線の電化などのため、113系が追加投入されたのですが、それらの車両はオリジナルの湘南カラーではなく、白地にスカイブルー帯の新快速カラーとなっています。そしてこのカラーは、鳳の車両基地が手狭になって日根野に移された後も、153系が京阪神の新快速から退いた後も、そして何と国鉄がJRに改組されてからも変わりませんでした。阪和新快速は、死して新快速カラーの電車を残したことになります。
その後は、関西空港線の開業などに伴って223系や225系などの投入が進んだこと、また113系の置き換え用に221系を導入したこと、さらに113系自体もリニューアルにより外板塗色を変更したことなどで、新快速カラーをまとった113系は数を減らしていきます。
新快速カラーの113系は最近まで残っていたようですが、昨年末ころに定期運用を失ってしまいました。噂では広島地区に転属して103系を置き換えるそうですが、果たして新快速カラーが残るかどうかは分かりません。

昭和47(1972)年の阪和新快速デビューから、今年でちょうど40年。
その年に新快速カラーをまとった113系が阪和線を離れるとは、何か因縁めいたものを感じてしまいます。
現在阪和線、特に和歌山側には元気がないようですが、さらなる活性化を期待したいものです。

次回は、予告編と順番を変えますが、153系の後継車デビューとその後を取り上げます。

その7(№2114.)に続く