その4(№2099.)から続く - 


昭和47(1972)年3月15日、新幹線岡山開業に伴う白紙ダイヤ改正。

このとき、新快速は1日6往復のみの「お試し期間」を脱し、朝ラッシュ終了後から夕ラッシュ前にかけて、1時間当たり4本(15分間隔)の運転に改められました。もちろん、今回はパターンダイヤにきちんと組み込まれています。また、運転区間も西明石からさらに西の姫路まで伸び(毎時1本)、神姫間でも山陽電鉄との競争関係になりました。この段階での新快速停車駅は、草津・石山・大津・京都・大阪・三ノ宮・明石・西明石(姫路発着列車は通過)・加古川でした。

そして注目された使用車両ですが、近郊用の113系ではなく、急行用の153系を充て、普通車のみの6連を組みました。


153系が新快速に使用できるようになったのは、この改正で新大阪・大阪発着の急行、特に四国連絡「鷲羽」の大半が廃止、山陽線方面への急行もほとんどが岡山発着に建て替えられることから、同系に大量に余剰車が生じたためです。当時153系は古いものでも新造後15年経過しておらず、まだまだ使える車両であった一方、165系と異なり山岳線区対応になっていなかったため使用できる路線が限られていました。あけすけに言えば、新快速への153系の投入は、「余剰車両の有効活用」という側面があったのも事実です。

当時、国鉄における車両の運用は(一部の気動車を除く)、通勤・近郊・急行・特急と厳格に分けられ、現在のように特急用車両による普通列車など考えられない時代でした。153系にしても急行用車両ですから、「新快速」とはいえあくまで普通列車扱いの列車に同系を充てることは、当時の常識からすれば考えられないことでした。しかも、同系使用の急行列車ですら普通車の完全冷房化が達成されていなかった時期に(153系は、普通車の冷房化改造が全車完成する前に、老朽化により廃車が始まってしまったので、完全冷房化は達成していない)、あえて冷房車を選抜して編成を組むということも、当時としては破格のサービスでした。

さらに破格だったのは、当時既に取り付けられる機会が減少しつつあったヘッドマークが、新快速に取り付けられるようになったことです。そのマークは、113系時代の凡庸なものではなく、急行用のそれにデザインが準拠した大型の堂々たるもので、80系の急電マークにも勝るとも劣らないインパクトを見る者に与えました。しかも153系の外板塗色も、湘南カラーから白地にスカイブルーの帯に変えています。

ただ、国鉄としては並行私鉄との競争、特に京阪3000系や阪急2800系などと競わなければなりませんので、それらと競争する「新快速」が113系では、率直に言って「お話にならなかった」ということです。そこで本来は急行用であるはずの153系に白羽の矢が立ち、しかもヘッドマークまで用意されたわけですが、同系の起用は2つのヒットをもたらしています。


その2つとは、1つはサービスレベルの向上、もう1つは最高速度の向上です。

153系は4人がけボックスシートですが、さすがに急行用のため113系よりもゆったりとしており、しかも座り心地も申し分なし。その上、113系と異なりデッキがついていたため客室の遮音性や保温性に優れ、113系に比べると桁違いに快適になっています。一説によると一部の列車には車内販売まであったといいますから、ほとんど長距離急行並みのサービスレベルとなっています。後年、阪急が6300系を造ったとき、ドアを車端部に寄せたのは客室の静粛性を高めるのが目的とされましたが、その設計には153系のデッキが大きな影響を与えたに違いない。私はそう思っています。

また、153系への置き換えにより、新快速の最高速度が95km/hから110km/hに引き上げられました。これによって、京阪間は新幹線開業前の特急「こだま」ですら成し得なかった29分という所要時間で駆け抜けています。

この「京阪間29分」というのがいかに脅威か。これによって、京都・大阪両駅を毎時0・15・30・45分に出発するラウンドダイヤが組めるようになり、両駅にはこの発車時刻を時計の文字盤のようにあしらった看板が設置されました。さらに「京阪間29分」は、並行私鉄にも絶大な衝撃を与え、並行する阪急・京阪とも、その後はスピードアップを諦めてしまい、快適性の向上に意を用いるようになります。淀川の対岸を走り、線形もよくない京阪がギブアップしたのは当然として、その京阪が戦前高速運転を目指して建設したはずの京都線(阪急)さえもスピードアップを諦めてしまったのは、「京阪間29分」の衝撃の大きさを物語っているかのようです。


というわけで、153系により新たに走り始めた新快速は、その出で立ちから「ブルーライナー」の愛称をもらい、利用者に好評となった…のですが、やはり弱点がありました。

それは、113系時代と同様、朝夕のラッシュ時には運転できなかったことです。これは前回も触れましたが、京阪神の複々線は外側線(列車線)が国鉄本社の管轄であり、本社によって優先的に長距離列車や貨物列車のダイヤが引かれていくため、新快速といえども内側線(電車線)を走らざるを得ず、列車密度が増すラッシュ時には運転することが困難で、そのためにラッシュ時には新快速のダイヤが引かれていませんでした。したがって、この時間帯には、153系は新快速ではないただの快速の運用に就き、6連を2本併結した12連での運転も見られました。


昭和47年は、3月15日の新幹線岡山開業、10月2日の日本海縦貫線全線電化完成により、2度も大規模なダイヤ改正を行った年として特筆されます。

同年2度目の10月2日のダイヤ改正では、それまで毎時1本だった姫路発着列車が2本に増やされ、神姫間の速達サービスがより充実しました。反面、西明石は通過扱いとされたため、同駅では新快速の乗車チャンスが3本/時から2本/時に減少してしまっています。

昭和49(1974)年7月には、山科から琵琶湖の西岸を通り北陸線と短絡する湖西線が開業し、新快速も1時間に1本、途中駅の堅田まで乗り入れています。開業時は海水浴ならぬ「湖水浴」シーズンだったため臨時に近江今津まで延伸され、これは土日や観光シーズンに実施されることになりました。

ちなみに、当時は北陸線の交流・直流の境界は滋賀県内の坂田-田村間に存在し、湖西線もその関係で永原-近江塩津間に境界を設けたため、153系など直流電車は永原までしか入ることができませんでした。


その後、国鉄は労使対立の激化や財政状態の悪化など不幸な要因があったのですが、ほとんど「自爆」としか言いようのない拙攻により、利用客を逸走させてしまいます。これは京阪神でも例外ではありませんでした。その最たるものが昭和51(1976)年11月に実施された運賃・料金の大幅値上げですが、これによって長距離客がかなり逸走したといわれています。その他にも、保守間合いを確保するためと称して列車を日中時間帯に1時間運休するなど、利用者不在としか言いようのない施策が講じられ、これらによって京阪神でも乗客が減少してしまいます。

さらに、投入当初は好評を博した153系も、車両の老朽化とサービスレベルの陳腐化が顕著になってしまいます。国鉄もてこ入れのためか、新快速の停車駅に神戸を加えたりしたのですが、その効果も焼け石に水でした。


そこで、153系に代わる、新快速用に特化された車両が望まれることになるのですが…。

次回はそのお話の前に、京阪神間以外に登場した「新快速」の話題を取り上げましょう。


-その6に続く-