その3(№2093.)から続く

52系・43系が80系に、さらに113系に代わり、利用者数も運転本数も増えた「急電」改め快速電車。
それはいいのですが、快速電車は80系投入直後の昭和25(1950)年と比べても、停車駅の増加により、速達性は薄まってしまいました。当時は京阪間・阪神間でも並走私鉄はノンストップないしそれに近い停車駅とされ、都市間輸送に特化した輸送体系をとっていました。国鉄の「急電」→快速は、当初は並行私鉄の特急と急行の中間くらいの位置づけだったのですが、度重なる停車駅の増加により、並行私鉄の急行クラスの列車になってしまい、都市間輸送に関しては並行私鉄の後塵を拝していた面もあるのは確かです。

そこで、国鉄も京阪神の都市間輸送に打って出ようということで、それまでの快速よりも上位の快速が登場することになりました。
「上位の快速」登場は昭和45(1970)年10月のダイヤ改正のことで、

・運転区間は京都~西明石。途中停車駅は大阪、三ノ宮、明石のみ。
・車両は113系を使用。ただし外板塗色は湘南カラーではなく紺+クリームの「スカ色」。
・グリーン車(←1等車)はなし。
・名称は「新快速」とする。

という内容でした。このころ、大阪万博が終了しダイヤ・車両にも余裕ができたということで、スカ色の113系を新快速に宛てて運転を開始しています(もともと横須賀線用の増備車で、それが新快速に充当されていたとの説もあり)。

途中停車駅が大阪・三ノ宮・明石と、新幹線接続駅の新大阪すら通過するというのは、今にして思うと大変なインパクトがありますし、神戸地区も繁華街の三ノ宮しか停車しないというのは、明らかに京阪神間の都市間輸送に特化したものであることが見て取れます。
その反面、運転本数は非常にささやかなもので、日中僅か6本(6往復)のみ! しかも、需要が見込めないことと加減速性能確保のため、快速には連結されていたグリーン車が連結されなかったなど、戦前の「急電」の華やかさとはまるで異なる地味なものでした。
そして何より残念だったのは、京都-西明石間の複々線の内側線(電車線)を走行したことと、使用車両が113系だったことです。京都-西明石間の複々線は、外側線(列車線)が国鉄本社の管轄で、内側線が大阪鉄道管理局の管轄、外側線を走る列車については本社が優先的にダイヤを組んでいくため、より速達効果の高いはずの外側線を走らせることは無理な相談でした。
そのため、せっかくの新快速も運転本数が限られ、しかも快速・各駅停車のパターンダイヤを崩してしまうという、ダイヤ構成上は率直に言って「お荷物」としか評しようがない存在でしかなかったのです。さらに、使用車両が113系だったことは、同系が何の変哲もない近郊型電車で、乗客の快適性に配慮がないことも問題でした。塗色こそ「スカ色」とされ快速用とは区別されましたが、乗ってしまえば同じ車両。これでは乗客へのアピールも弱くならざるを得ません。
ただ、当時の国鉄をあえて弁護するなら、これらの問題は、国鉄が「全国一律」のサービスを標榜し、車両にしても通勤・近郊・急行・特急の区別を頑ななまでに墨守してきた結果です。しかし、これらの問題は、並行私鉄との競争において、ことごとくマイナス要因として働いてしまいました。この問題は、国鉄の民営化直前まで尾を引くことになります。

実は、ダイヤ改正の直前、この「上位の快速」は、「特別快速(特快)」と仮称されていました。
しかし、「特別快速」は当時既に中央快速線で運転が開始されており、しかも使用車両が101系の10連でした。そのせいかどうか、あるいは東京で既に使われているのと同じ名称を使ってもさしたるインパクトがないと考えたのか、直前になって「新快速」という新しい愛称が採用された経緯があります。
ちなみに、日本交通公社(現JTBパブリッシング)刊(「時刻表」には、新快速相当の列車が「特別快速」ないし「特快」として表示されていますから、時刻表の原稿締め切りの直後に、急遽「新快速」と呼称するように変えられたのでしょう。

ともあれ、昭和45(1970)年10月、ここに関西の雄・新快速が産声をあげました。
運転開始翌年には、新快速は草津へ延伸されます。しかし、流石に京都-草津間がノンストップというわけにはいかなかったようで、途中大津と石山に停車するようになりました。これによって、新快速は早くも滋賀県湖東地区に達します。
しかし、この延伸によって所要編成数が増加してしまい、全ての編成をスカ色で賄うことは不可能になってしまいました。また、当時は特急用など優等列車ばかりでなく、通勤・近郊型にも冷房化の波が押し寄せてきた時期でもあり、113系も新製冷房車投入や従来車の冷房改造が進められ、新快速にはそういった車を優先的に充てるようになりました。そのため、湘南カラーとスカ色の混色編成も多く発生し、編成美という点でも今ひとつだったのは残念です。さらに当時、新快速はヘッドマークを掲げていましたが、それが長方形に「新快速」と書いただけという、80系の急電ヘッドマークとは比べものにならない凡庸さで、それもインパクトを欠く要因となりました。
ただ、当時は既に国鉄内部の労使関係は最悪に近い状態になっており、ヘッドマークの取り付けなどがままならなかった状況もあった中で、デザイン的には「アレ」であっても一応マークが取り付けられたことは、大阪鉄道管理局の意気込みの表れとして受け取るしかないのでしょう。また、混色編成についても、当時の113系は湘南カラーが圧倒的多数だったのですから、予備車を共通化するためには、少数派のスカ色のお守ばかりしていられなかったという事情もあります。

日中のささやかな本数とはいえ、ここに現在に続く「新快速」が産声を上げたことになります。
しかしこのころ、既に並行私鉄はさらなるサービス充実を目指していました。阪急電鉄が京都線特急用の2800系の冷房改造を進め、京阪では特急車の決定版3000系の新造投入を開始しました。阪神間では並行私鉄はロングシートの純然たる通勤車でしたが、それでも特急など上位の列車に優先的に冷房車を充当するなど、サービスアップは進められていきます。
このような状況下では、いくら足が速いとはいえ、本数も僅少では、並行私鉄に対する競争力は維持できません。
そこで国鉄は、新快速に専用車両を用意して、さらなる充実を図るのですが、そのお話はまた次回。

その5(№2103.)に続く