その7(№2114.)から続く

今回は「新快速」のライバルたちを取り上げます。
「新快速」も、その前身である「関西急電」も、全て並行私鉄というライバルたちに戦いを挑み、立ち向かっていったという歴史があります。中でも、特に競争が熾烈だったのは、阪急・京阪ともデラックスな特急用車両を擁する京阪間、次いで阪神間でした。
そこで、以下では京阪間・阪神間・神姫間に分け、117系登場までの各並行私鉄の動きを見てまいろうと思います。

1 京阪間
最も競争が熾烈だったのがこの区間です。国鉄は確かにスピードで優位に立ち、新快速への153系投入とともに「京阪間29分」という金字塔を打ち立ててはいましたが、車両のサービスレベルの差とともに、ひとつ圧倒的な差がありました。
それは、大阪・京都とも、京阪や阪急の方が中心部に近いターミナルを構えていたことです。
大阪側は国鉄・阪急とも梅田地区で、大差がない立地ですが、京阪は当初は天満橋、その後淀屋橋まで延伸され、大阪の官庁街へ到達しました。
一方、京都側は国鉄が市街地の外れの八条地区なのに対し、京阪は三条、阪急は四条河原町という繁華街のど真ん中に立地し、京都中心部へのアクセスの良さで人気を集めていました。
そこへもってきて、両者ともデラックスな特急用車両を投入しています。たとえば、京阪は戦前の「ロマンスカー」700形から始まり、戦後は「テレビカー」1800・1900系、そして昭和46(1971)年に登場した3000系は、それまでなかった冷房を搭載して現れ、国鉄や阪急に対し一歩優位に立ちました。
3000系投入当時、淀川の対岸を走る阪急は特急に2800系を充当していましたが、オール転換クロスシートではなく、しかも冷房がないことで、3000系が揃ったころの京阪には一歩譲り、物足りない観もありました。阪急も急ピッチで2800系の冷房改造をするのですが、やはり失礼ながら2800系には京阪3000系に「追いつけないもの」があったのかもしれません。だからこそ、京阪3000系登場の4年後、6300系の投入につながったのだと思います。
もちろん、この当時、阪急・京阪とも京阪間はノンストップ。阪急は大阪側の十三を出ると、京都市中心部の大宮までノンストップでしたし、京阪も大阪環状線との乗換駅である京橋を出ると、七条(国鉄京都駅や三十三間堂などに近い)までノンストップ。路線の出自から線形の悪いハンデを持つ京阪は、テレビカーなどの付加価値をつけたサービスで乗客に訴求する一方、阪急は高速運転を前提に建設された路線の線形の良さを生かし、高速運転を行いました(それでも国鉄には敵いませんでしたが…)。
ご存知の方も多いと思いますが、京阪間の阪急、阪急京都線は「新京阪電鉄」という京阪が作った会社が、高速運転を目論んで建設した路線で、将来は名古屋方面への延伸が目されていました(新京阪時代の名車・デイ100の設計図に、名古屋への長距離運転用の車両のものが残されている)。しかし、名古屋への延伸は叶わず、しかも阪急に編入されて淀川対岸の京阪とは泣き別れ。運命とは残酷なものです。もし新京阪が阪急に編入されなかったら、当時の天神橋(現・天神橋筋六丁目)から淀屋橋・天満橋方面へ伸び、京阪間の都市間輸送はそちらがメインルートとなり、現京阪線は宇治線や交野線への直通列車が主になっていたかもしれません。京成の成田スカイアクセスと本線の関係に近いものになっていたのでは…というのは、妄想が過ぎるでしょうか。
この区間が転換クロスシートを装備したデラックスな車両を運用することができたのは、何といっても無停車区間が長く、乗客の出入りが少なかったことが大きな理由ではないかと思います。

2 阪神間
阪神間では国鉄は阪急・阪神と競合していましたが、戦前の阪急900形の一部に転換クロスシートが採用されたり、戦後登場した阪神の3011形がセミクロスシートとされた他は、ロングシート車が主流となってしまいました。これは京阪間と異なり、阪神間では西宮や芦屋といった中核都市があり、同区間を完全ノンストップにすることはできなかったことが理由ではないかと思われます。
ただし車両の冷房化は1970年代以後急ピッチで進められ、「新快速」が153系で走り出すころは既に、両社の優等列車は100%の冷房化が達成されました。1970~80年代、毎年大手私鉄の冷房化率がマスコミで発表されていましたが、阪神がいつもダントツだったのを覚えています。子供時代の管理人はそれを見て、「阪神ってスゲー私鉄だなー」と感心していました。やはりライバルの存在が、サービスアップを加速させるのでしょうね。
とはいえ、京阪間とは異なり、阪神間では阪神・国鉄・阪急の利用者である程度の棲み分けができており、あまり競争は熾烈とはならなかったようです。

3 神姫間
神姫間で競合するのは山陽電鉄ですが、こちらは神戸高速開業前、神姫間を特急が65分で結び、スピードでは敵わないものの、頻繁運転で乗客を集めていました。
昭和43(1968)年に神戸高速が開業し、山陽電鉄の電車が西代を突き抜け、地下を通って神戸の中心部に乗り入れるようになり、利便性が大幅に向上しました。新快速が姫路に達したのがその4年後ですから、新快速の姫路延伸は、山陽電鉄の利便性向上に対する対抗策であったことがよく分かります。

4 「新快速」と並行私鉄
新快速に153系が投入された当初は、国鉄の利用客もそれなりにいましたが、私鉄のシェアを蚕食するまでには至らないものでした。とはいえ、国鉄の強みは外縁部からも乗り換えなし・通算運賃で来れることで、国鉄の乗客数はそのような乗客に支えられていた面もあったかと思います。
それが、昭和51(1976)年の大幅値上げ以降、京阪間や阪神間における国鉄の乗客数は目に見えて減りました。そりゃそうでしょう、いくらスピードが高くても、当時は国鉄と並行私鉄で1.5倍くらいの運賃差があったようですから、そりゃ並行私鉄に流れるのも無理はありません。
そのため、京阪間の京阪・阪急の特急は活況を呈しました。当時両社とも特急は15分間隔で運転されていましたが、座れないとなれば躊躇せず次の特急を待つ乗客は多かったですし、座りたいがために途中駅から始発駅まで戻って乗車する乗客が多く現れ(例えば、京阪特急に乗る場合、京橋からだと座れないので京橋から淀屋橋まで戻る)、その対応にも手を焼いたと聞きます。

1980年代に入り、国鉄は不毛な労使対立と巨額の負債を抱え、もはや分割・民営化しかないとの結論に達します。そのことがひとつのきっかけとなり、かつてのような労使対立はなくなり、労使協調路線に舵を切り始めます。そこで国鉄は、新快速に対して再度「攻めの姿勢」に出るのですが、そのお話はまた次回。

-その9に続く-