その2(№2013.)から続く

前回みたとおり、東急はVVVF車の営業運転を成功させ、6000系は大任を果たし、退役していきました。
そして、いよいよ東急はVVVFインバーター制御の新型車両を製造することに決定しました。これが現在も活躍が続く9000系ですが、その開発に当たっては、以下のような事項が理念として挙げられました。

1 サービスと乗り心地が向上すること。
2 保守が容易になること。
3 操縦性が良くなること。

これらは、いわば「9000系の製造・開発のコンセプト」ですが、第1項の「サービスと乗り心地の向上」については、車端部へのクロスシートの採用、東急では初となる平天井の採用、さらに着席区分を明確化したロングシートの採用が注目されます。ここでは項目だけ列挙することにして(内容は次回に詳述します)、今回は外装とメカニックの面に重点を当てようと思います。

第2項の「保守が容易になること」については、VVVFインバーター制御の採用は勿論、東急では初となるボルスタレス台車の採用が注目されます。
ボルスタレス台車とは、台車からボルスタ(揺れ枕)を廃して空気バネだけで車体を支える構造の台車で、揺れ枕の廃止で軽量化が可能となり、軌道に与える負荷が軽減できること、また揺れ枕部分の保守が不要となり合理化にも役立つというメリットがありました。ちなみに、東急におけるボルスタレス台車の採用は、9000系が初となっており、その後は最新の5050系4000番代に至るまで、東急の新造車両はボルスタレス台車を装着しています。ちなみに、ボルスタレス台車は軽量化の効果が顕著なためか、新幹線でも採用され(JR東海の300系以降)、その他事業体でも夥しい採用例がありますが、東京メトロの10000系は揺れ枕を装備した台車を装着していますし(08系までがボルスタレス台車を装着していたのに対し、『先祖返り』したことになる)、京急のようにボルスタレス台車を採用していない事業体もありますので、猫も杓子もボルスタレス台車、というわけではないのは注意すべきでしょう。
第3項の「操縦性が良くなること」については、当時計画が動き始めていた目蒲線→営団7号線や都営三田線への直通(路線名称はいずれも当時。当時はこの構想が『都心線』と呼ばれていた)に使用することをにらみ、運転台からの視界を拡大するために、営団6000系や大阪市営地下鉄の10系などと同じように、貫通扉を非常用と割り切って助士席側にオフセットし、広い視界を確保しています。

ここで、9000系のデザインについて注目すべき事実があるのですが、視認性の向上を旗印に、それまで東急では採用例がなかった、パノラミック・ウインドウの採用が真剣に検討されていたことです。当時の東急は、車両のデザインは全て実用性一辺倒で決定されており、某デザイナーのように「遊び」が入り込む余地がなく、それが東急の車両に「切妻型」が多い一因でもありました。「鉄道ダイヤ情報」2011年6月号に、9000系のデザインパースが掲載されているのですが、パノラミック・ウインドウの採用は勿論、このときのデザインが名古屋市交通局の3050系や6000系などに酷似しているのには、管理人は心底驚かされました。
以前の8500系の前面形状について、小田急の9000形のデザインを採用することが真剣に検討されていたのは有名な話ですが、このときも東急の幹部の「通勤用車両なのだから切妻でいい。客室はできるだけ広くとること」との意向により、現在見られるような切妻形状になっています。
結局、このころは上記のような東急の幹部の考え方が強かったことにより、9000系は切妻形状とされ、現在見られるような顔立ちになったわけですが、実際の南北線・都営三田線乗り入れ用は、戦後の東急では初めて半流線型の先頭形状とされた3000系が投入され、その後の5000系列もその流れをくみました。これは、運転席からの視認性の問題もそうですが、東横線に特急が運転されるようになったころから、切妻の車両は走行音が大きくなり走行抵抗も大きくなる(『列車風』の問題)という問題が顕在化し、切妻の車両では高速運転ができないということが、東急の社内で認識され始めたことが大きいと思われます。

9000系は、交流電動機によるVVVF制御を採用したことから、出力が高くとれるため、8000系列の6M2TよりもMT比率を下げ1:1にした4M4Tとして計画され、編成中M車は4両とされました。また、各M車は電気的なユニットを組んでいるわけではなく、各車両ごとにパンタグラフが搭載されています。
9000系の製造に当たっては、驚くべきコンセプトがありました。それは、

「東急は、メーカーの技術面での開発に力を貸すこと。費用がかかってもよいから1編成を製作し、走り込んで不具合を早く見出して改良を進めれば、我が国全体のためになる」

というものでした。これは、当時の東急の技術系トップだった田中勇氏(現相談役)の発言とされています。
東急は、かねてから新技術の開発や採用に熱心な会社でした。「青ガエル」こと先代5000系を作ったときには、あっと驚く超軽量車体を採用しましたが、あれは航空機の機体の製作技術を流用したものです。当時はGHQにより航空機の開発・製造が禁じられ、失業した航空技術者が多数鉄道や自動車の世界に流入しましたが、東急先代5000系もその影響(恩恵?)を受けたわけです。その後も、減速時に主電動機を発電機として使用し架線に戻す回生ブレーキを先代6000系に採用し、画期的な「1台車1モーター」を採用するなどしました。
もちろん、そのどれもが成功というわけではありませんでしたが(例えば、1台車1モーターはパワー不足が顕著だった)、そのような東急の進取の気性が、VVVF車を生み出す原動力になっていたのは、まぎれもない事実といえます。

このころは、まだインバーター装置が非常に高価で、導入を躊躇している事業体も多数ありました。それでも採用を決断したのは、やはり上記の田中氏の「鶴の一声」だったのでしょう。

次回は、9000系の内装その他の面を見ていきたいと思います。

※ 田中勇氏の言動は、「鉄道ダイヤ情報」2011年6月号の記述に依りました。

その4(№2047.)に続く