その4(№1830.)から続く


「ヨン・サン・トオ」のダイヤ改正の際、「しなの」で華々しくデビューした、キハ181系。

キハ181系は、大出力エンジンを搭載し、急勾配にも対応できる新世代の特急用気動車としてデビューしました。


大出力エンジンを搭載した、パワフルな特急用気動車を作りたい。

このような目標は、既に「はつかり」用キハ81系を設計する当時からあって、そのために国鉄は、準急用キハ55系の車体に大出力エンジンを搭載した試作車(キハ60系)を製造しました。しかし、キハ60系では満足のいく結果が得られなかったことと、製造のタイムリミットに間に合わなかったことなどで、従来型のエンジンを1基ないし2基搭載した形態になりました。これがキハ80系となったわけです。

キハ80系の形態は、従来の技術の延長線上ということで安定感はあったものの、パワー不足はどうしても否めませんでした。まして、「ヨン・サン・トオ」を控えたころになると、主要幹線はあらかた電化されたか電化計画が立てられてしまっていたため、従来のキハ80系では特急列車として必要なスピードを得ることが難しくなってしまいます。

そこで、国鉄は昭和41(1966)年にキハ90系を製造し、中央西線の急行「しなの」などで営業運転に使用しつつ、その使用結果をデータとして収集することにしました。

その結果を反映させたのが、言うまでもなくキハ181系ですが、実はキハ90系の使用結果を正しく反映させていない事項がありました。それは何かというと、気温・湿度の高い夏季の連続高速運転です。これがエンジンなど駆動系に対して、大変な負荷をかけてしまうことは明白なのですが、キハ181系にその結果が反映された形跡はありませんし、そもそもキハ90系でこの問題を検証した形跡もありません。その理由ですが、キハ181系気動車を「ヨン・サン・トオ」に間に合わせないといけない、という時間的な制約があったことによると思われます。誤解を恐れずに言えば、キハ181系の製造は、ある意味で「見切り発車」という側面があったことは否めません。


キハ181系は「ヨン・サン・トオ」から「しなの」として、さらにそれから1年4ヶ月後の昭和45(1970)年2月、満を持して「つばさ」に投入されます。

キハ181系は大出力エンジンを搭載し、それが平坦線における高速運転と山間部の勾配線におけるパワフルな運転を可能にしているわけですが、ではキハ181系が本当の意味で所期の性能を発揮し得たかというと、それはちょっと違うのではないか、といわれています。

キハ181系は、先頭車以外は屋根上に放熱ヒレを配し、走行中に冷却する方式をとっていましたが、中央西線の小断面のトンネルに突入すると、放熱ヒレから排出された熱が逃げ場を失い、トンネル内に籠もってしまいます。それによって放熱がうまくいかず、結果としてエンジンのオーバーヒートを招くことになりました。小断面のトンネルで熱の逃げ場がないという状況は、地下鉄千代田線に直通運転していた103系1000番代と同じ状況であり、こちらもトンネル内に籠もった熱気で床下の配線が蒸し焼きにされてしまい、「鉄板焼き電車」なる、ありがたくない異名を頂戴してしまいました。それと同じ現象が、キハ181系でもおきてしまったわけです。

また、キハ181系の場合、大出力エンジンを搭載したことで食堂車を完全な付随車にしましたが、これもエンジンに過大な負荷をかける原因となってしまいました。


「つばさ」の場合、キハ181系投入の理由は勾配線区のスピードアップはもちろん、福島-米沢間で必要としていた補機を不要とすることでした。キハ181系投入に伴い、補機は一旦不要とされましたが、後に復活してしまうことになります。その理由は、やはりエンジンに対する過大な負荷でした。

「つばさ」は上野を発車すると、福島まで東北線を走りますが、この当時の東北線は、485系や583系による電車特急が高頻度で走っていて、それら電車特急の足を引っ張らない高速運転を余儀なくされました。キハ181系の投入の理由のひとつもその点にあったわけですが、この区間での「つばさ」の運転時分は、485系使用列車と数分しか違わなかったので、キハ181系投入の効果は上がっていたわけです。

しかし、上野-福島間の爆走のあと、米沢までの板谷峠区間に入りますと、今度は連続した急勾配がキハ181系を苦しめることになります。それでもエンジンの冷却がうまくいけば問題はなかったのですが、この区間は単線・小断面のトンネルが多く、「しなの」の中央西線と同様、冷却が十分に行われず、そのためにエンジンのオーバーヒートなどのトラブルが多発しています。国鉄当局も手をこまねいていたわけではないのですが、その対策は編成両数を減らすなどの対症療法的なものでしかなく、エンジントラブルを起こした車両が多くなりすぎ、一時は編成すら組めなくなる(定期列車としての運転すら危ぶまれる)事態にまでなりました。

結局、「つばさ」は福島-米沢間で再び補機をつけることになり、キハ80系からの置き換えで補機の使用を取りやめることができたはずなのに、また補機を必要としてしまうという、非効率な事態となってしまい、キハ181系投入にもかかわらず、「つばさ」の補機は電車化まで解消することができませんでした。こと「つばさ」に関する限り、同系投入の所期の目的は達成することができなかったということになります。


それでもキハ181系使用列車は増えていき、昭和46(1971)年には新大阪-出雲市(伯備線経由)間の「おき」が登場、後の「やくも」への布石となります。東北では同じ年、「つばさ」の間合い運用として仙台-秋田(北上線経由)間の「あおば」が登場しました。

その翌年、昭和47(1972)年3月には、それまで特急列車がなかった四国にも、キハ181系を使用して2系統の特急列車が登場します。当時は瀬戸大橋は未開業ですから、いずれも高松発着とされました。2系統の特急とは予讃線の「しおかぜ」と土讃線の「南風」ですが、これらの列車には食堂車が連結されず、グリーン車に車販準備室を備えたキロ180(100番代)が用意されました。四国の特急に食堂車が連結されなかったのは、恐らく四国には食堂車営業に必要なインフラが整っていなかったのが理由でしょうが、「食堂車なき特急」が一般化する一過程でもあり、やや寂しい感じがします。


なお、昭和47(1972)年3月の改正では新幹線が岡山まで開業し、それに伴って山陽・山陰の特急列車の系統が建て替えられています。気動車特急に限って言えば、


1 「おき」が新大阪-岡山間をカットして「やくも」に建て替え。
2 大阪発の福知山線特急を「まつかぜ」に統一。
3 大阪-鳥取・倉吉間に播但線経由の「はまかぜ」が登場。食堂車はなし。


という動きがありました。

この改正を機に、キハ181系は所定の両数が揃ったということで、同系の新製が打ち切られました。


今の目で見れば、キハ181系というハイパワーの特急用気動車を作ったのであれば、なぜ高速運転が要求される山陽~九州方面への特急に投入しなかったのかという疑問が浮かびます。しかし、「ヨン・サン・トオ」の時点で、新幹線の博多までの工事が始まっていましたから、新幹線が開業した暁には、山陽線の優等列車が廃止されることが容易に予想されましたし、また新幹線開業後に転用するといっても、キハ80系が減価償却に必要な年数(13年)に達していなかったので、同系が余剰となることも予想され、転用先を確保することが難しかったという理由もあるでしょう。

しかし、最大の理由と思われるのは、キハ80系に比べて保守が面倒だったことです。そのせいかどうか、後年「しなの」が電車化されたとき、当局が「ひだ」をキハ181系に置き換えようとしたら、現場の名古屋の車両基地が拒否したのは有名な話ですが、このころは国鉄の職場において労使対立が激しくなってきた時期でもあり、そういう点での不幸もあったように思われます。


次回は、新幹線博多開業直前までの、気動車特急の最後の輝きを取り上げます。


その6(№1850.)に続く