その3(№1806.)から続く


これまでキハ80系による気動車特急の快進撃を概観して参りましたが、キハ80系の製造は昭和42(1967)年で打ち切られます。

このころになると、主要幹線は大半が電化され、しかも電化完成が間近という状況になってきて、それでも当面非電化で残っている路線は、80系を使うのが適切ではなかったり(奥羽線など)、あるいは80系ではパワー不足が明白な路線だったり(中央西線など)ということが多くなってきました。

そこで、国鉄は昭和41(1966)年にキハ90系を製造し、中央西線の急行で試験的に運用して実績を積み重ね、その成果を元に、新たな大出力の特急用気動車を世に出しました。この車両こそ、181系気動車です。


181系の来歴とスペックについては、既に以前の記事で御紹介しておりますので、重複を避けるために詳述することはしませんが、「ヨン・サン・トオ」と呼ばれる昭和43(1968)年10月の全国ダイヤ改正に合わせて投入され、中央西線の「しなの」として、名古屋・大阪-長野間を走り始めました。もちろん、当時の特急ですから、1等車も食堂車も連結したフルスペックの編成。食堂車は今回、完全な付随車となりました(キサシ180)。

「しなの」は、スピードはそれほどでもなかったのですが、冷暖房完備の快適な居住性と食堂車での食事が好評を博し、特急券はプラチナチケットとなったそうです。


このように、「ヨン・サン・トオ」では、181系気動車が「しなの」として華々しくデビューしましたが、80系使用列車についても、電車化や運転区間の変更など、大々的に手が入れられました。電化区間の少なかった北海道や山陰がほぼ無風だったのに対し、東北や山陽~九州系統は、かなり手が入っています。


最も大きく変わったのは東北地区で、東北線の全線電化完成に合わせ、気動車特急の始祖「はつかり」が電車化され、あわせて経由線区も東北線に変更されています。この動きは「ヨン・サン・トオ」におけるもっとも大きな・インパクトのある動きといってもよく、キハ81系は登場後8年で、発祥となった列車の運用の任務を解かれることになりました。

これによってキハ81系が「はつかり」運用を失いましたが、もちろん廃車になることはなく、尾久から秋田へ移転し、増発された「つばさ」の運用に就きます。なお、当時の「つばさ」は板谷峠(福島-米沢間)で補機として電気機関車を連結していたため、キハ81の先頭部の連結器カバーが外され、連結器が剥き出しになりました。その後退役するまで、キハ81は連結器が剥き出しになったままでした。ただし、この改正で「しなの」に投入されたキハ181系は、この時点では未だ「つばさ」には投入されていません。キハ181系が「つばさ」に投入されるのは、昭和45(1970)年のことです。

もっとも、「つばさ」に使っていたキハ81系は、キハ181系への置き換えを待たずに、昭和44(1969)年10月から、上野-秋田間を羽越線経由で結ぶ特急「いなほ」に充当されるようになりました。「いなほ」の間合い運用として、同時に常磐線上野-平間の特急「ひたち」も運転を開始しています。ただし、「いなほ」は豪雪地帯を通過するため、冬季のダイヤ乱れが懸念され、そのため「いなほ」と一体の運用となっていた「ひたち」は、最初は毎日運転ではない季節列車として運転が開始されました。ちなみに、常磐線は「ヨン・サン・トオ」の前年に全線電化が完成していますから、「ひたち」は全区間架線の下を走る気動車特急となってしまいました。

上野-山形・会津若松間の「やまばと」はこの改正で電車化されましたが、それにより山形・会津若松の各編成をそれぞれ独立させたため(というか当時の電車特急では2編成を併結することは無理だった)、会津若松行きの列車については、「あいづ」という独立した愛称を冠されることになりました。

上野-金沢間の「はくたか」は、「ヨン・サン・トオ」のときは無風でしたが、翌年、経由を上越線に変更した上で電車化されています。このため、このときに信越線長野-直江津間から一時的に特急列車が消えました(昭和47(1972)年に電車特急『白山』運転開始により復活)。


さらに、山陽~九州の系統も電化の進展により、気動車特急の系統が整理されています。

まず「かもめ」は京都-長崎・佐世保間の列車に変更され、食堂車は長崎行きに連結、佐世保行きは食堂車なしの編成とされ、経由も筑豊線経由、両編成は京都-小倉間での併結運転とされました。また、この改正前まで「いそかぜ」として運転していた西鹿児島行き特急は、大阪始発とした上列車名を「なは」と改め、大阪-小倉間で宮崎行き編成を併結することとされ、こちらは「日向」と名づけられました。なお、食堂車は「なは」編成に連結されています。

ちょっと前なら、単独運転区間が短くなった「かもめ」はともかく、「なは」「日向」ならそれぞれに食堂車が連結されていたはずですが、このころは特急列車が大増発されていて、しかも当時の特急には食堂車が必須アイテムとされていたため、食堂車はもちろん食堂従業員が払底してしまったことが、「ダブル食堂車」がなくなった理由です。

九州島内では、前回触れたとおり「ヨン・サン・トオ」の1年前に「有明」が登場していますが、この改正では、東海岸の日豊線を行く特急として「にちりん」が登場しています(博多-西鹿児島間)。


中部地区では、前述のとおりどうしても「しなの」ばかりが注目されますが、それまで特急列車のなかった高山線を経由する列車として、名古屋-金沢間の「ひだ」が登場していることも忘れてはいけません。

しかし、「しなの」にはあった食堂車が「ひだ」にはありませんでした。これは、前述した当時の車両需給や食堂従業員の確保の関係と思われますが、気動車特急にも「食堂車なし」が一般化する、寂しい萌芽が現れています。ただ、寂しいばかりではなく、この列車の運転の前後から、経由地の高山が観光地として注目されるようになりますので、「くろしお」の天王寺-新宮・白浜間列車ともども、観光地を目的地とする特急列車のはしりかもしれません(経由地からいえば『あすか』もそうなる可能性はあったが、出入庫の都合を前提としたダイヤでは、そもそも無理な相談か)。また、その「くろしお」は、天王寺発着の列車が増発され、南紀地区への新婚旅行需要に応えています。


次回は、キハ181系の勢力拡大の様子と「しなの」「つばさ」での様子を、もう少し詳しく眺めることにします。


その5(№1837.)へ続く