その12(№1077.)から続く


東海道新幹線が開業したころから、日本は豊かになり、家庭での食事も核家族化の影響から個食化・多様化・簡易迅速化が求められるようになりました。それに伴って、それまでのフルコース中心の本格的な食堂車よりも、軽食中心のビュッフェ車が求められるようになっていきます。

このころ相次いだ、急行列車の電車化に伴い、それまでの本格的な食堂車はビュッフェ車に衣替えされていきます。このような衣替えは、国鉄の方針が特急には本格的な食堂車、急行は長距離列車以外はビュッフェ車とすることに決まったのも影響しています。東海道線や東北線に登場したビュッフェ車は、編成中に2両組み込まれていましたが、次第に1両とされ、車両の新製数を抑えつつ多くの列車に連結するように方針が転換されています。そもそもビュッフェ車が編成中に2両連結されたのは、それによって優等車を挟み込み、普通車の乗客が優等車を通り抜けることがないようにする配慮ですが、このころになると、結果としてそのような配慮は放棄されています。もっともこれには、列車の本数が増えすぎたために食堂車従業員を確保することが難しくなってしまい、限られた要員を1本でも多くの列車に振り向けるような方策を採らざるを得なかったことも影響しています。また、ビュッフェ車は本格的な食堂車と異なり、本格的な料理は要求されていませんので、必ずしも調理の技能を持たない者でも調理ができるようにパターン化・マニュアル化することも考えられました。このような発想は、現在のファミレスに通じるものがあります。


ともあれ、急行列車のビュッフェ車は、


1 東海道 寿司(※)
2 山陽・九州 うどん
3 北陸・東北 そば
4 上越 洋風・中華風料理


※ 東海道系統の電車急行は、新幹線開業と同時に全廃とはならず、昭和43(1968)年9月末まで残存していた。 


というように、極めて多彩な形態となりました。

さらに、昭和43(1968)年10月、碓氷峠をEF63と協調運転ができる169系電車が登場すると、このビュッフェ車には「信州=そば」ということなのか、そばを主体に提供するメニューとなりました。ただし、車両は東海道系統から転じたサハシ153を改造によって用意し(サハシ169)、新製はされませんでした。サハシ153形は165系電車にも連結できるように改造され(サハシ165形50番代)、上越線系統の列車に連結されるようになりました。

しかし、急行電車のビュッフェ車は、運転時間が一部を除いて概ね4~5時間であったため、その程度の運転時間では十分な収益を得ることが難しく、一部の列車にはビュッフェ車よりも弁当や飲み物を提供する売店を設置する方が望ましいと考えられるようになりました。そのような考慮に基づき、売店車・サハ164が登場し、中央線系統の急行「アルプス」などに連結されるようになります。管理人も中学への通学の途上、165系編成に組み込まれていたサハ164を何度か見たことがありますが、ビュッフェスペースが車体長の3分の2を占めているのに対し、こちらは売店スペースが窓(客席の)3枚分くらいしかなく、ビュッフェ車よりも座席定員は増えています。これも売店車が導入された理由になっています。


一方、特急列車には夜行寝台列車も増加し、また直流・交流区間を自由に往来できる481系・483系も登場、この車両を使用した特急列車も増加しています。もちろん、非電化区間にもキハ80系による特急が増加しています。ただし、481系・483系の食堂車・サシ481は、内外装ともサシ151と大差がなく、ブルトレ用のナシ20のような凝ったデザインにはなっていません。これに対して、この2年後に世に出た「あずさ」用の181系(後に151・161系とも主電動機換装などを行って181系に編入)の食堂車・サシ181には、走行線区を反映したのか、穂高連峰の山のレリーフが壁面に飾られています。

当時の食堂車は、特急列車の必須アイテムとされましたから、これらの列車にはほとんど食堂車が連結されています。唯一の例外は、昭和41(1966)年、181系電車により上野-長野間に運転を始めた「あさま」があり、「ひびき」のような例外を除けば、定期特急で食堂車の連結のない特急第一号となります。もちろん、この列車の運転開始前には、食堂車の連結が真剣に検討されていましたが、碓氷峠を通過する際に編成両数が8両に限られるため、輸送力的に1両減となる食堂車の連結は、そもそもできない相談でした。このときは「あさま」は希有な事例でしたが、それが時代が下ると共に、希有でも何でもなくなってしまうのですが…。


新幹線が開業してもしばらくは、特急が増えたとはいってもまだまだ文字どおりの「特別な急行」であり、そのステータスは依然として高いものがありました。それ故にこそ、原則として全ての列車に食堂車を連結するという方針がとられたわけですが、「ヨン・サン・トオ」と称される昭和43(1968)年10月1日のダイヤ改正のころになると、それまでの急行列車を特急に格上げする動きが出てきます。

この改正のころには、481系・483系と分かれていた形式を統合した、交直流特急電車の決定版ともいえる485系が登場し、爆発的に増殖していきます。またこの前年には、恐らく日本、いや世界の歴史でも唯一無二の存在であろうと思われる、寝台・座席両用の交直流特急電車である581系が登場、さらに583系へと進化し、昼夜を分かたぬ活躍ぶりで「モーレツ・サラリーマン」を地でいくような車両でもありました。485系の食堂車としてはサシ481が引き続き増備され、581系・583系のそれはサシ581ですが、こちらは寝台車と屋根の高さを揃えているため室内の天井が非常に高く、写真を見る限りなかなか開放感のある車両だったようです。

しかし、サシ581は、内装の簡素化が図られていて、プラスチックの椅子に化粧板の内装という、良く言えば質素、悪く言えば味も素っ気もない内装になってしまいました。この車両はカーテンではなく窓ガラスの間に仕込んだブラインド(ベネシャンブラインド)を装備したためカーテンがなくなり、そのことがなおさら、内装の質素さ加減を際立たせてしまったのかもしれません。後に登場したブルトレ用の14系(オシ14)や24系(オシ24)もサシ581と似たような内装になっていて、ナシ20よりも豪華さという点では一歩も二歩も譲るものになってしまったのは残念なことでした。

余談ながら管理人の実体験を披露しますと、実際に食事をしたことがあるのはサシ481の方で、サシ581は、上野駅で実車を外からしか見たことがありません。ちなみにサシ181は、父に連れられて「とき」に乗車していることがあるはずなのですが、残念ながらリアルタイムでの記憶がありません。


「ヨン・サン・トオ」の時点では、サシ181・サシ481・サシ581を組み込んだ電車特急が、北は青森から南は熊本・大分まで、電化区間の大半を制し、電車特急の爛熟期を謳歌します。

このころは鹿児島・宮崎地区や羽越・奥羽線などはまだ非電化でしたから、気動車特急のキシ80はそのような路線にも足跡を記し、それこそ北海道から九州まで四国以外の全国の主要幹線を網羅していました。また、ブルトレの食堂車ナシ20も、この改正から日本海縦貫線系統に初めてブルトレ「日本海」が走るようになり、青森から鹿児島まで北海道と四国以外の主要幹線を網羅しています。

他方、客車の急行列車は電車化・気動車化や特急格上げなどにより減少し、これによって戦前型の食堂車がこの改正までにほとんど退役しています(戦前型食堂車の完全退役は、JTBキャンブックス刊の『国鉄鋼製客車Ⅰ』によれば、昭和45(1970)年と思われる。ただし、ヨン・サン・トオ以後も営業運転に供されたかどうかは不明)。残るブルトレ用以外の客車の食堂車は、オシ16とオシ17にほぼ統一されています。


このように、食堂車の連結・営業列車が増加したのですが、このことは、要員の不足などさまざまな問題を顕在化させることにもなります。

次回は、私鉄に登場した型破りな食堂車を御紹介した後、次々回にこの問題を取り上げることにいたします。


その14(№1090.)に続く