その13(№1084.)から続く


既に「その3」(№1020.) において、国鉄(及びその前身の私鉄)・JR以外での食堂車は南海鉄道の「クイシニ」こと電7形先頭車が初であり、その後それ以外のものは現れなかった…と申しました。

ところが、その「クイシニ」登場のちょうど40年後、昭和38(1963)年に、当時の国鉄以外の私鉄では唯一の食堂車が登場します。その空前絶後の食堂車を就役させたのは、伊豆の東海岸に路線を持つ伊豆急行(伊豆急)でした。伊豆急は、伊豆半島の観光開発などを主目的に建設されたもので、昭和36(1961)年に国鉄の伊東線を延長する形で、伊東-伊豆急下田間が開業しました。伊豆急は純然たる私鉄ではありますが、東急電鉄がかなりの出資をしており、東急の子会社という位置づけになっています。当時、東急(五島慶太)vs西武グループ(堤康二朗)との間で伊豆の観光開発をめぐり、熾烈な「伊豆戦争」が繰り広げられていましたが、伊豆急の路線はその最前線という意味合いもありました。

このような観光開発の競争に刺激を与える…ということでもないのでしょうが、全線開業後の昭和38(1963)年、路線総延長が50kmにも満たない路線としては破格といえる、食堂車が登場します。


この食堂車・サシ191は、当時まだ「高嶺の花」だった冷房を搭載し、大きくとった窓にテーブルを並べた、食堂車としてはかなり本格的なもので、私鉄の全室型食堂車としては日本で初めて、そして今のところ、日本で最後のものとなっています。

とはいえ、路線総延長が短いことは、列車の運転時間が短いこととほぼイコールです。従って、この食堂車については、国鉄の食堂車のような、本格的なコース料理や定食を供することは想定されていませんでした。


では何を提供したかといえば、


ビール


です。


実はこの車両、サントリービールと提携し、「走るビアガーデン」として観光客の呼び込みの起爆剤にし、かつビールの宣伝広告塔にするという使命を負っていました。今でこそサントリービールは、業界でそれなりのシェアを確保していますが、当時はキリン・アサヒなどの後塵を拝する…という言い方がおこがましいほどのシェアしかありませんでした。そのため、サントリーが自社の商品としてのビールを大々的に売り込もうと考え、このような車両をつくったのです。


ではなぜ伊豆急線になったのかですが、その理由は、


①  観光地へ向かう列車であれば、一般世間に与えるインパクトが大きいこと。
②  「伊豆」といえば夏、海水浴。夏といえば「ビール」。よって観光客に受け入れられやすい。


というものがあったのではないかと思われます。

現在では考えられませんが、当時は海水浴といえば夏の代表的なレジャーでした。まだまだマイカーでの海水浴は少数派でしたから、その「足」はおのずと電車、伊豆の場合は伊豆急になるわけです。

余談ですが、昭和30~40年代には、東京駅を午後11時ころに出て、伊豆急下田駅に午前2時ころに到着する臨時列車があったそうです。この列車の乗客は、朝まで車内で仮眠できたそうですが、この列車の乗車率も大変なものがあったようです。現在からはとても考えられませんが…。


というわけで、この車両は「スコールカー」というニックネームも与えられ、定期列車に連結されて営業を開始します。


ところで、この食堂車はいわば「走るビアガーデン」として、生ビールなどの飲み物と簡単な料理を提供することが考えられていたようですが、ではそれで採算が取れるのかということについて、当時のサントリーの幹部は、大要「赤字になるのはやむを得ないだろうが、それも広告宣伝の費用の一環で、経費のうちだ」という、実に太っ腹な考え方を持っていたようです。実際、この「スコールカー」は、伊豆への観光客に絶大なインパクトを与え、当時のサントリーの幹部が目論んだとおり、それなりの宣伝効果を発揮することになりました。


…とこのように書くと、いかにも「スコールカー」が順風満帆だったように読めますが、実際にはそうでもありませんでした。

その一番の足かせは、国鉄伊東線への入線(熱海乗り入れ)が認められなかったことです。当時の国鉄がなぜ熱海乗り入れを認めなかったのかは分かりませんが、食堂車といえば特急列車や長距離列車の必須アイテムであり、列車のステータスを表わすものである、というイメージが、当時の国鉄内部にも利用者の中にもあったのかもしれません。あるいは、昔の「鉄道ジャーナル」で、寝台特急にカップラーメンなどの自動販売機を置いてはどうかという提案に対し、当時の国鉄の幹部が「そんなものは罷りならん」という回答をしていたという話(この話は同書1976年9月号に掲載されている)からすると、「面倒なものを持ってこられたらかなわん」といった、非常に事なかれ主義的・官僚主義的な考え方があったのではないかと思われます。


結局、サシ191はわずか数年で編成を外されてしまい、伊豆稲取の留置線などで放置プレイ状態にされていました。

そして遂に昭和49(1974)年、食堂の装備をすべて撤去して転換クロスシートを装備、扉も設置して普通座席車に改造され、形式もサハ191となりました。

当時、伊豆急の車両は100系のみですが、普通車で冷房を搭載した車両はこのサハ191が初めてとなりました。サハになってからは一般車と混用されていましたが、2100系の導入とともに廃車になっています。2100系の導入は昭和の末期で、バブルの絶頂期。なのでこのころ、サハ191を食堂車に復元したら、結構な商売ができたのではないか…と思いますが、歴史に「if」は禁物ですね。


このように、極めて不遇な生涯をたどってしまった「スコールカー」ですが、この車両の寿命を縮めてしまったのは、結局のところ国鉄への乗り入れが認められず、運用が制約だらけだったことが大きいと思います。国鉄へ乗り入れられなかった理由は前記のとおりですが、その他には労使関係の悪化なども背景にありました。


実は昭和40年代に入ると、国鉄内部の労使関係の悪化や食堂従業員の払底などの要因により、食堂車は受難の時期を迎えるのですが、そのお話は次回に。


その15(№1095.)へ続く