その11(№1070.)から続 く-


昭和39(1964)年10月、我が日本の国家的大事業である東海道新幹線・東京-新大阪間が開業します。

当初の運転時間は、名古屋・京都のみ停車の超特急「ひかり」が4時間、各駅停車の「こだま」が5時間とされましたが、いずれも在来線の電車特急の所要時間を大幅に短縮するものでした(その後「ひかり」は3時間10分にスピードアップ)。


東海道新幹線で使用される車両は、「0系」と呼ばれる2桁の形式ですが、車種の記号には「モハ」や「クハ」などはなく、番号でシステマティックに分類したものとなりました。この点も、在来線とは一線を画しています。0系では形式の百の位が省略され、十の位が1は1等車(→グリーン車)、2は2等車(→普通車)、食堂車が3とされました。このあたりの基本的なシステムは、現在のN700系やE5系まで、概ね守られているようです。


0系については、既に色々なところで語られておりますので、詳細を述べるのは止めますが、0系の営業運転開始当初の食堂車は、簡易型のビュッフェ車で2等室との合造形とされ(35形)、在来線の急行のように1編成に2両組み込まれました。

当初本格的な食堂車を採用しなかった理由は、所要時間が短いため本格的な食堂車よりはビュッフェの方が旅客のニーズに合致するのではないかという考慮があったようです。

なお、開業当初は「ひかり」「こだま」とも1等車を2両組み込んだ共通の編成でした。編成数は30本でしたから、ビュッフェ車は60両存在したことになります。在来線の食堂車であれば、単一の業者が1列車・1両の営業を請け負うところですが、新幹線では当初それをせず、車両の車号によって営業を担当する業者を分けていました。昭和39(1964)年10月1日付の公報通報号外による営業者一覧によれば、


1・2・4・9・11~26・33~54 日本食堂
3・5・8・10・27~32・55~60 帝国ホテル(※)


※=文献では3・5・8・10・27~32・55~60となっているが、「5・8」ではなく「5~8」が正しいのではないかと思われる。


となっていました。


その理由ですが、新幹線ビュッフェは立食が基本で、しかも車両基地に取り込まずに終端駅でそのまま折り返す車両運用が大多数を占めていたため、在来線のような車両基地での食材や食器類の積み込み・積み下ろしが無理だったことや、折り返しの時間が限られ食材などの積み込み・積み下ろしの時間も限られることなどから、営業者ごとに私有する調理器具や食器類の一切を積み替える業務を廃したことによります。それでも両終端駅のホームでは食材の積み込み・積み下ろしのためのワゴンが絶え間なく往来し、旅客や駅員からの苦情が絶えなかったそうです。また、車両基地以外にも従業員の待機場所確保などの問題があり、それらに対する設備投資もかなりな額になりました。それは、東京・大阪の都心部に確保する必要があることから、家賃その他の費用が高額になったからです。

それよりも、最も根本的な問題は、ビュッフェ車の営業形態がお客に必ずしも諸手を挙げて受け入れられなかったことで、今でいう「顧客満足度」が極めて低かったことです。これは、


①ビュッフェ車故にメニューが絞り込まれていて乗客の選択の余地が少なかったこと

②①との関連で電子レンジで温め直したような安直な料理ばかりがメニューに並び、それが顧客の満足を得られなかったこと

③戦前の和食堂車と同じように「とっとと食べてとっとと出ていく」のが常態となり、到底くつろいでの食事など望めなくなってしまったこと


などが、顧客の不興を買ってしまったことなどが理由にあるそうです。

また、このような要因とは別に、上記のような安直な料理が顧客にそっぽを向かれてしまったため、コーヒーやビールのようなものの注文が大半を占めるようになり、そのために客単価が極めて低かったことも問題となりました。この問題は、後に自由席が設けられるとさらに顕在化し、コーヒーやビールだけを注文してビュッフェ車に入り浸るような乗客も散見されるようになりました。このような客がいると、本当に食事をしたいお客はビュッフェ車に座れませんから(当時のビュッフェ車はイスもあった)、このような「座席客」は業者にとって迷惑以外の何ものでもありませんでした。余談ですが、当時は食堂車の伝統があったため、ビュッフェ車にいる乗客は検札を実施していなかったこともあり、このことが出張族による不正乗車に悪用されるようになります(国鉄末期~JR初期のころには実施されるようになった)。


このように、様々な問題が顕在化した新幹線のビュッフェですが、こうした問題が出てくるということは、管理人の目から見れば、そもそもビュッフェという供食サービスのあり方そのものに問題があったのではないかと思わざるを得ません。

現在の日本では、ファストフードが普及し、そのような店舗では「手軽さ」「安さ」こそが至上命題であり、本格的な味を求めている顧客はほとんどいないのではないかとすら思います。ですので、現在の日本ではこのようなビュッフェ車でも受け入れられるとは思いますが、当時は「ファストフード」などという概念そのものがなく(日本にマクドナルドができたのは昭和46(1971)年。これは飲食産業に外資が参入できるようになったため)、当時の乗客には「食堂車での食事はかくあるもの」といったような固定観念が少なからずあったのではないかと思います。そう考えると、ひょっとしたらこのような供食サービスの形態は、時代を先取りしすぎていたのかもしれません。


余談ですが、新幹線開業の17年後、フランスで「TGV」が走り始めたとき、当時同国の特急列車には当たり前のように連結されていた食堂車ではなく、新幹線のような安直な(誤解を恐れずにいえば)ビュッフェ車になったのは、「速い列車で乗車時間が短いのでこの程度でいいだろう」という、我が東海道新幹線と似た発想によるのではないかと思われます。本当のところはどうなんでしょうか。このビュッフェ車がフランス国内で顰蹙を買ったという話は聞かないのですが。その後、同国でも食堂車が壊滅的に減少したのは残念なことです。「美食の国」のイメージがありますので、食堂車文化は残ると思っていたのですが。


話を元に戻します。


その後、昭和41(1966)年ころから、「こだま」は1等車の利用率が振るわないために2両から1両に減らされ、ここで「ひかり」「こだま」編成は明確に区別されます。

このころは、ビュッフェ車に上記のような問題があったため、業者は食堂営業よりは車内販売に力点を置くようになります。そのような流れもあってのことなのか、「こだま」はビュッフェ車を編成中2両から1両に減らし、その減らした1両を、車内販売の基地を兼ねた売店車とすることとされました。

このころ在来線では、直流電化区間と交流電化区間を自由に往来できる、交直両用の特急電車・481系が登場し、食堂車サシ481が誕生、「雷鳥」(大阪-富山)「しらさぎ」(名古屋-富山)といった北陸線系統に投入されます(運転開始は昭和39年12月下旬から)。それと並行して戦前型食堂車の退役が徐々に進められ、食堂車の体質改善も図られていくことになります。


次回は、前記のサシ481形などの登場によって到来した、在来線食堂車の爛熟期と、その光と影を取り上げます。


その13(№1084.)へ続く