その9(№437.)から続く


前回の記事で、昭和50(1975)年3月10日改正における東京ブルトレ及び関西ブルトレの改変について取り上げましたが、今回はそれ以外について取り上げます。


1 14系ブルートレイン編成の急行が登場


これまで、ブルトレといえば特急ばかりでしたが、急行にもブルトレが登場します。それは、関西-九州間の夜行急行「雲仙・西海」(新大阪-長崎・佐世保)、「阿蘇」(新大阪-熊本)、「くにさき」(新大阪-大分)の3往復です。
既にこれ以前には、12系が「きたぐに」(大阪-青森)や「音戸」(京都-広島)などの普通座席車として投入された実績がありますが、14系が急行に投入されたのはこれが初めてです。
しかし、これらの列車は全車指定席とされたため乗車率が振るわず、やむなくその後すぐに自由席を設定し、周遊券利用者を受け入れています(当時のワイド・ミニ周遊券は急行列車の普通車自由席に乗り放題だった)。
余談ですが、この改正では、24時間以上をかけて東京-西鹿児島(当時)間を結んでいた「桜島」「高千穂」が廃止され、東京発着の九州直通急行が全廃されました。これらによって、東京駅を発着する定期夜行急行は「銀河」(東京-大阪)1往復のみになります。


2 「日本海」14系化と増発


前回もちらりと触れていますが、この改正では、それまで20系で運転されていた「日本海」が14系に置き換えられています。B寝台車のベッド幅が広くなったのは結構なのですが、前回触れたように食堂車を東京ブルトレに供出してしまったため、廃止されてしまいました。ほとんど就寝時間帯を走る列車とは違い、「日本海」は長距離ですから、食堂車がなくなったことに対しては、囂々たる非難の声が上がったものです。
また、この車両が関西ブルトレと共通運用とされたことは、日本海縦貫線の積雪時の遅れの影響をまともに受けることにもなり、冬季の定時運行の多大な障害となってしまいました。さすがにこのような超広域運用は無理があったようで、昭和53(1978)年10月のダイヤ改正時に取りやめられています。
なお、季節列車が14系座席車で増発されたのは前回触れたとおりです。


3 北のブルトレ、さらなる充実


「はやぶさ」「富士」「出雲」の24系化などで浮いた20系は、他系統の特急の新設や増発に充てられています。
具体的には、常磐線経由で青森へ向かう「ゆうづる」が増発され、583系による列車と合わせて7往復に膨れ上がりました。その他、上野-金沢間の同名の急行を格上げした「北陸」、やはり上野-盛岡間の同名の急行を格上げした「北星」が新しく登場します。
これらの列車は、「ゆうづる」を別格とすれば、寝台特急として運転する時間・距離が短くなっていて、中でも「北陸」の上野-金沢間は、全ブルトレの中でも最短の距離を走る列車となっています。しかし、あまり早く目的地に到着してしまっても就寝時間が短くなりすぎてしまうことから、途中駅で長時間停車をして(勿論、そのほとんどが運転停車です)時間を稼ぐケースが目立ってきました。「北陸」の場合は、上越国境を越えるため、水上-石打間で補機を使用していましたので、その付け替えの時間を含めて駅に停車している時間が長く、そのため同列車は表定速度の最も遅いブルトレともなっています。この「鈍足ブルトレ」のタイトルは、後に「出羽」が登場したことによって一時奪われますが、現在でも「北陸」は「鈍足ブルトレ」として君臨しています。
「北星」の場合は、青森や北海道を目指す旅客が多かった「ゆうづる」などの救済列車として運転されていましたが、この列車は急行時代から、新聞を沿線に輸送する使命を持っていました。その列車が格上げされてブルトレに仲間入りしたのですが、カニ21では荷物室の容量が不足していたことから、パレット積載式の荷物・貨物両用車ワサフ8000を上野方に連結して対応しました。ワサフ8000の風貌は完全な有蓋貨車ですから、そのような車両がブルトレ編成に連結されるというのは、見る者に強烈な違和感を与えました。過激な愛好家の中には、この列車を見て、「20系も二流に転落した」と嘆いた人もいたとかいないとか。
ちなみに、14系・24系などの新系列車両に押し出された20系が特急用に回されたのはこの改正までで、その後は20系は急行用に回されています。


4 その他


このように、列車の本数や運転系統ではさらなる充実が図られてはいますが、その他の事項については、合理化はかなり進められています。
たとえば、ヘッドマークは東京発着の「さくら」「はやぶさ」「みずほ」「富士」「あさかぜ」「出雲」「瀬戸」にしか装着されていませんでした。東京発着でも「いなば・紀伊」にはありません。それまでヘッドマークがあった「あかつき」「彗星」「日本海」なども取り付けられなくなってしまい、牽引機だけでは列車名が分からない寂しい時代がしばらく続くことになります。
なお当然のことながら、新設ブルトレにはヘッドマークが用意されることはなく、そのため「安芸」「紀伊」のように、一度もヘッドマークを付けることがないまま生涯を終えた列車もあります(『紀伊』はイベント用でのヘッドマークが用意されていたようですが)。
ブルトレの旅のオアシスであり、ステータスでもあった食堂車も、関西ブルトレその他の系統の列車からは軒並み外され、食堂車を営業する列車は、上記の東京発着ブルトレだけになってしまいました。
このころは、国鉄財政が危機に瀕していた時期で、かつ労使対立も厳しさを増していましたから、とても乗客に対するサービスにエネルギーを向けることはできなかったのでしょう。この年の11月に、国労は歴史に残る「スト権スト」を挙行し、全ての列車を8日間にわたって止めてしまいますが、それでも国民生活に対しては何らの影響も及ぼしませんでした。これによって、鉄道貨物の多くが道路輸送に逃げ、貨物輸送の凋落を招きます。旅客輸送の方も、この「スト権スト」の約1年後、昭和51(1976)年10月の運賃・料金50%値上げにより長距離客の止めどない逸走を招き、「国鉄離れ」という言葉がマスコミなどで語られるようになります。
当然のことながら、ブルトレもその影響を受けずにはいられなくなります。


こうして、新幹線博多開業によりブルトレは大激震に襲われ、大きくその姿を変えています。
しかし、この「50.3大激震」は、翌年のさらなる激震の予兆に過ぎなかったのです。


その11(№450.)へ続く