その10(№444.)から続く


「50.3」改正後も、ブルトレの激震は続きます。


このころから国鉄の財政は苦しくなってきますが、そのような中でも24系25形の増備は少しずつ進められ、昭和51(1976)年2月20日出発分から「つるぎ」「日本海」が24系25形に置き換えられました。このうち「日本海」はダイヤ改正で14系座席車により運転されていた列車を寝台列車化したものですが、肝心の要員が不足してしまい、毎日運転というわけにはいきませんでした(完全定期列車化は昭和53(1978)年10月2日から)。


さて、ここで「つるぎ」に使っていた20系が浮きました。
それまでは、このように置き換えで浮いた20系客車は他系統の寝台特急か増発用に回されていましたが、24系25形が投入されるようになると、さすがに寝台幅52cm・3段ベッドは特急用としてどうなのか、という疑念が向けられるようになります。つまり、生活水準の向上や日本人の体格の向上などにより、20系のサービスレベルが相対的に下がってしまったのです。
ではそのまま退役させるかといえば、そのようなことはなく、何と急行「銀河」に転用されることになりました。それまでなら「銀河」を20系化の上特急格上げになっていてもおかしくなかったのですが、急行のまま存置されたのは伝統の力だったのか、あるいは短距離にすぎたからでしょうか。
それまでの国鉄は、特急用・急行用など、列車種別ごとの車種の使い分けを厳密に守ってきました。以前の記事で12系の特急が走ったというお話をしたことがありますが、このときも12系が急行用だったというそれだけの理由で、特急料金を100円割り引く措置をとったくらいです。前年の14系座席車が急行に使用されるようになったのも合わせて、このころからサービスアップのためにはいい車両をどんどん使おうという姿勢に転換していったように思われます。もっとも、現在のJRではそれが行き過ぎたのか、特急用車両を使っているというだけで、通過駅が2つしかないのに特急料金を徴収している列車もあるようですが…。
余談はともかく、上記「つるぎ」を置き換えたその同じ日から、「銀河」に20系が投入されます。投入にあたっては、当時の牽引機EF58では空気バネ用の圧縮空気を供給できるようになっていないもの(これができる牽引機が『P形』といわれた)もあったため、カニ21の荷物室を潰してコンプレッサーを置き、自ら圧縮空気を供給できるように改造され、形式もカヤ21と改められています。
ただし、この「銀河」の20系、利用者からは好評をもって迎えられたのですが、他のブルトレのようにバックサインに列車名が入ったかといえば、そのようなことはなく、単に「急行」と表示されただけでした。このあたりは、特急ではない急行ブルトレの悲哀ともいえましたが、これも昭和55(1980)年ころから天の川をデザインした絵入りテールマークが付くようになり、特急と遜色のない姿を見せるようになりました。


この年の夏、遂に東京ブルトレにも大きな地殻変動の予兆が現れます。

それまで関西から東へは来なかった24系25形が、東京に姿を現すようになったことは、その後の置き換えの予告編のような感じでした。この列車は臨時「あさかぜ」で、お盆の多客期に走っています。それまで3段式がデフォルトだった東京発着の九州ブルトレに、臨時列車とはいえ2段B寝台車が出入りするようになったことは、当時は強いインパクトがありました。

そしてこの年の10月1日のダイヤ改正に際し、遂に東京発着の九州ブルトレに、満を持して24系25形が投入されます。最初の投入列車は「はやぶさ」「富士」「出雲」の3列車ですが、それまでの24系に比べてB寝台の定員は単純計算で3分の2に減っていますから、それでも置き換えが可能になったのは、やはり新幹線博多開業に伴い、旅客の多くが新幹線に転移したからでしょう。

それまでの24系25形は、A寝台車のないモノクラス編成でしたが、東京発着列車では優等車を連結しないわけにはいかないということから、オール個室とした新型A寝台車オロネ25が新造されました。この車両は、ナロネ20以来のオール個室寝台車で、1人用個室14室が並ぶという、全ブルトレの中でも最豪華車両となりました。
ただし、この個室寝台は20系のナロネ20やナロネ22のような線路と並行にベッドを配するものではなく、線路と直角にベッドを配し、細長い個室が14室並ぶものでした。これは、寝台セット・解体の手間を省くためでしたが、この個室は横幅の狭さも相まって、「独房」などと揶揄されるようになります。
食堂車は新製が期待されましたが、これは従前の24系編成からオシ24を抜いて組み込みました。オシ24は24系の仲間ですから、車体色はセルリアンブルーに白帯で、銀帯ではありません。そのため、銀帯編成の中に1両だけ白帯の食堂車が組み込まれ、これが編成中での良いアクセントになりましたが、編成美の点ではやはり今ひとつで、その後(JR発足の前後か?)テープによる銀帯に改装されています。
編成の大半を占めるB寝台車も、それまで関西ブルトレに投入されていた車両から設計変更がなされています。それまでの車両は上段寝台の自動昇降装置が装備されていましたが、2段寝台の場合は上段をセットしたままでも十分な頭上高さがあって居住性に問題がないことから、最初から上段寝台を固定したままの構造とし、車号も100番代として区別されました(それまでの車両は0番代)。上段寝台を固定化したため、寝台側の窓は0番代に比べて上下高さが低くなり、そのせいで窓上が異様に広くなり、どことなく大陸的な風貌となりました。上段寝台の固定化は、いうまでもなく合理化のためですが、その後、この年の11月限りで「車掌補」が廃止され、合理化が一層深度化しています。


「はやぶさ」「富士」「出雲」の任を解かれた24系は、大挙して青森に移り、「ゆうづる」4往復をまとめて置き換えます。これによって、24系は「ゆうづる」のみに使用される独占系列となりました。
では「ゆうづる」の任を解かれた20系はどうなったかといえば、「銀河」に続く急行への転用がなされました。具体的には、新潟・羽越線経由で上野-秋田間を走っていた急行「天の川」と、上野-仙台間の急行「新星」です。これらの列車が、「銀河」のときと同様、カニ21→カヤ21への改造を経て20系に置き換えられています。
これらとは別に、季節列車だった「銀河」「十和田」の各1往復について14系座席車が使用されるようになり、14系座席車を使用する急行列車も増えました。


明けて昭和52(1977)年も24系25形の投入が継続され、今度は東京-下関間の「あさかぜ」と共通運用の「瀬戸」、さらに「安芸」が20系から置き換えられました。「あさかぜ」「瀬戸」用の編成は、「はやぶさ」などとは異なり、食堂車もA寝台車もないモノクラスの味気ない編成で、これによって両列車から食堂車と優等車が消えました。24系25形は乗客の目から見れば居住性は申し分ないのですが、それまでの車両に比べドライな感は否めず、これらの列車も実用本位の列車になってしまった感があります。


次回は、遂に「殿様あさかぜ」の終焉を迎え、まだまだブルトレの激震が続く様子を見ていくことにいたしましょう。


その12(№459.)へ続く