その8(№431.)から続く


ちょうど33年前の昨日、昭和50(1975)年3月10日。

この日、遂に新幹線が福岡(博多)に達し、九州に新幹線が上陸することになりました。山陽新幹線の全面開業です。

当然のことながら、この日をもって山陽線系統の昼行特急・急行は全廃、夜行も旧型客車を連ねた急行は全廃され、僅かに「雲仙・西海」「阿蘇」「くにさき」の3系統3往復のみが残されました。

では、ブルトレ(電車寝台を含む)はどうなったのか。


1 「あさかぜ」1往復廃止
2 博多「あさかぜ」の優等車削減、ナロネ20・ナロ20退役
3 「はやぶさ」長崎行き取りやめ、「みずほ」付属編成を長崎行きに
4 「はやぶさ」「富士」「出雲」を24系24形に置き換え
5 「いなば・紀伊」登場
6 「あかつき」「明星」の愛称付け替え
7 583系使用の「月光」「きりしま」廃止
8 「日本海」「ゆうづる」増発・「安芸」「北星」「北陸」登場
9 14系座席車を使用した急行列車の登場


…とこのように、極めて変更点が多い改正だったのです。

そこで、当ブログにおいては、この「50.3.10」の大変革を2回に分けて見ていくことにいたします。


まず、大きなニュースは「あさかぜ」1往復の廃止と、残る博多「あさかぜ」から優等車が激減したことでしょう。
廃止されたのは増発された14系使用の1往復ですから、新幹線の開業に伴う旅客の転移を想定していることは容易に想像できますので、無理からぬところもあります。しかし、昭和33(1958)年から一貫して20系で運転されてきた元祖「あさかぜ」の優等車の激減は、こちらの方がショッキングだったような気がします。それまでの「あさかぜ」は、A寝台車やグリーン車という優等車を5両も連ねていて(それでも最盛期には優等車を7両もつないでいた!)、国鉄部内で「殿様あさかぜ」といわれた列車でしたから、優等車が3両に減らされた姿は、いかにもひとつの時代の終わりを感じさせるものだったでしょう。もっとも、減ったとはいえ3両ものA寝台車を連ねている列車は「あさかぜ」しかなく、しかも個室寝台はこの列車しかありませんでしたから、「殿様あさかぜ」としての威厳は何とか保たれていました。
しかし、その一方では全室個室寝台の最豪華車両だったナロネ20や、唯一のグリーン車だったナロ20が編成から外され、退役の憂き目に遭っています。ナロネ20は2人用個室を連結していましたが、当時は2人用個室の寝台券の売り方に問題があったようで、そのような車両を外したいという合理化の要請もあったようです。しかし、その後に登場した個室寝台車では、部屋単位で発売することになっていて、よその客と相部屋になることはありません。当時からこのような「部屋売り」が行われていれば、ナロネ20もあと3年は働けたのではないか…と思います。ナロ20にしても、その後20系が急行に格下げ使用されていることからすると、有効活用できたように思いますが、ナロネ20ともども僅か3両のみの仲間では使いにくかったのでしょう。

ちなみに、「あさかぜ」廃止によって浮いた14系編成を使用して、「いなば・紀伊」を新設しています。


「あさかぜ」以外の東京発着ブルトレも大変革を余儀なくされました。
それまで20系で運転されていた「はやぶさ」「富士」「出雲」がそろって24系に置き換えられたのもそうですが、「はやぶさ」の付属編成と「みずほ」のそれとで行き先が振り替えられ、前者は熊本折返し、後者が長崎行きになりました。「みずほ」は14系を使用していますので、これによって14系の分散電源方式が役に立つことになりますが、同時に「みずほ」は、鹿児島・日豊・長崎線と九州の主要系統全てに顔を出したことになります。このこと自体、「みずほ」の便利屋ぶりを如実に物語っているといえます。
なお、「はやぶさ」の付属編成が長崎に行かなくなったことにより、簡易電源車マヤ20がお役御免になり、ひとつの歴史が閉じられました。
ちなみに、上記3列車に連結される食堂車は、24系用のオシ24だけでは足りないため、14系用のオシ14を改造して対応しました。このあおりで、「日本海」から食堂車がなくなってしまい、利用者から囂々たる非難が浴びせられることになります。


この改正では、東京発着のブルトレの新しい仲間として、「いなば・紀伊」が登場したのも特筆すべきでしょう。この列車は、改正前は寝台急行「銀河1号・紀伊」として運転されていたものですが、「出雲」の寝台券が入手困難になっていたことから、兵庫県の日本海側や鳥取県での利用を見込み、米子まで延長の上特急に格上げしたものです。
しかし、この列車には「あさかぜ」時代の食堂車が組み込まれていたにもかかわらず、食堂車は営業休止のままとされ、しかも他の列車の牽引機がEF65形500番代だったのに対してEF58形と、しかもヘッドマークも用意されず、他の列車に比べて「格落ち」の感は否めませんでした。


東京ブルトレ以上に大きな改変の波をかぶったのは、やはり関西ブルトレでした。
まず、従前客車列車を「あかつき」、電車列車を「明星」と呼んでいたのを、使用車種にかかわらず鹿児島線系統を「明星」、長崎・佐世保線系統を「あかつき」として、行き先と列車名に関連性を持たせました。
これによって「あかつき」は新大阪・大阪-長崎・佐世保間3往復(うち2往復は『明星』との併結)、「明星」は電車と合わせて7往復の大所帯となりました。「彗星」は初めて583系が充当され、客車と合わせて3往復になっています。
ちなみに、「あかつき」に大阪始終着列車が登場したのは、この列車に使用する14系客車を「日本海」と共通運用にしたためですが、この14系の配置場所は九州の早岐客貨車区(当時)であり、超広域運用と話題になりました。このあおりで、「日本海」から食堂車が消えてしまったのです。
以上とは別に、583系による「なは」が登場していることも触れておくべきでしょう。この愛称の列車は、昭和43(1968)年10月のダイヤ改正で、沖縄の日本復帰を願って大阪-西鹿児島(当時)間の昼行特急列車に命名されたのですが、新幹線博多開業により廃止されます。昭和50(!975)年は既に沖縄の日本復帰が叶ったあとですが、命名の経緯から夜行列車に愛称を移して存置されています。実質的には、改正前に「きりしま」を名乗っていた列車が改称したということです。


新設列車としては、新大阪-下関間を呉線経由で走っていた急行「音戸」を格上げした「安芸」が挙げられます。この列車には20系が使用されましたが、利用が振るわず、「がらあき」などと陰口をたたかれたりしたものです。
なお、季節列車となった「明星」及び「日本海」の増発列車(季節列車)は、14系座席車で運転されることになりました。これは寝台車の新製コストと人員のコストを抑えるのが目的だったのでしょう。


その他、変わった話題としては、熊本発着の「明星」1往復が初めて筑豊線を経由するようになったことが特筆されます。これは、昼行特急「かもめ」や夜行急行「天草」の廃止と引き換えの経由変更でしたが、これによってブルトレに新たな走行線区が加わりました。


以上は東京発着及び関西ブルトレについて見て参りましたが、次回はその他について取り上げます。


その10(№444.)に続く