ラジオ&テレビドラマの創始者 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

久しぶりの更新です。
連休中は家の中で本や資料の移動、未整理のプリント類の分類をしていて、

腰痛を発生してしまいました…


革命後のキューバ映画史も1961年から先に進めねばと思いつつ、今日は逆行して、フェリックス・ベンハミン・.カィニェッ(Félix Benjamín Caignet/1892年3月31日~1976年5月25日)という人物を紹介します。
MARYSOL のキューバ映画修行-Felix B. Caignet
フェリックスBカィニェッ(以下、F.B.C)は、キューバだけでなくラテンアメリカ全体で一世を風靡したラジオ・ドラマ作家。同ジャンルの創始者(であると同時に、後のテレビドラマにおいても創始者)と見なされています。

というのも、それまでのラジオドラマが既存の演劇作品の翻案だったのに対し、F.B.Cは全く新しいタイプのラジオドラマを創案したからです。

最初のヒット作は、自身のオリジナル脚本による、中国人探偵チャン・リー・ポーの活躍を描いたサスペンスに満ちた冒険シリーズ。
初めてラジオドラマに“ナレーター”を導入し、サスペンス効果を盛り上げると同時に、“続きもの”として連日放送することで、リスナーの関心を繋ぎとめることに成功。ドラマは大ヒットし、コロンビアやアルゼンチンなどでも放送されました。
余談ですが、チャン・リー・ポーの口癖「落ち着いて。どうかよ~く落ち着いて(Paciencia, mucha paciencia)」は流行語になったほど。


ちなみに、キューバ初のトーキー映画として知られる『La serpiente roja(赤ヘビ)』は、この“チャン・リー・ポー”シリーズの第一話を映画化したもの。

ラジオの声優たち(演劇俳優)が映画でも同じ役を演じています。

監督はエルネスト・カパロ

映像は、こちら で見られます!


F.B.Cの代表作は『El derecho de nacer(生まれる権利)』。314話(章)から成り、1948年に通年で放送され、ラジオドラマの全盛期を極めました。同ドラマの人気は、またしてもキューバを超え、ブラジルを含むラテンアメリカ広域に及び、あまたの人々を泣かせたそうです。
もちろん、これも映画化されました。


さてここで、ちょうど良い機会なので、革命前のキューバ映画の状況について、2004年12月に初めてマリオ先生の講義を受けたときのメモを書き写しておきます。 (未検証につき要確認)


公けには、革命前にキューバに映画はなかったと言われるが、1930年~59年の製作本数は約170本(年間5本)に対し、1959年~90年は約140本(年間4本)で大差は無い。
ただし、質が低く建設的モデルにはなり得なかった。


1930年代後期(トーキー以降)~革命前のキューバ映画の特徴:
1)安い製作費
2)メキシコ映画またはアメリカ映画の模倣→(キューバ映画のアメリカ化を懸念した人々=文化団体「ヌエストロ・ティエンポ」(共産党シンパ:アルフレド・ゲバラ、フリオG.エスピノサ、トマス.G.アレア、サンティアゴ・アルバレスなど)
3)内容:メロドラマ、コメディ、ミュージカルなど大衆向き
4)未熟な監督(技術者は存在した)
5)ラジオドラマの転用(ヒットしたラジオドラマを映画化)


ところで、このメモの横に興味深いエピソードを発見!
(本当はこれが紹介したかった?)
なんとF.B.C.とガブリエル・ガルシア・マルケスは交友関係にあり、しかも、マルケスは「百年の孤独」を書いたとき、ラジオドラマ作家として大成功したF.B.C.に見せてアドバイスをもらったそうです!
では、F.B.CはG.G.Mにどんなアドバイスをしたかというと―
①1ページにひとつ何か起きること。
②文章は、文末に長いフレーズが来るように。


以上、6年以上前のメモのため、自分でもすっかり忘れていたのですが、今回F.B.C.について書こうと思い立ち、再発見した次第。
実はF.B.Cのインタビュー(1972年/下記URL参照)を読んでいて、マルケスと共通点を感じたのですが、必ずしも見当違いではなかったようです。
http://www.lajiribilla.co.cu/2002/n69_agosto/memoria.html
スペイン語が読める方はぜひ読んでみてください。エピソードだけでなく、F.B.Cの人となりも実に魅力的です。
(キューバ映画を調べていると、魅力的な人にたくさん出会えるから止められません!)


最後に、F.B.Cの生い立ちを紹介して終わります。
生い立ち:
出身はオリエンテ州のサン・ルイス市。父は裕福なフランス人でコーヒー園を経営、母はキューバ人でピアノの名手だった。フェリックスの音楽の才能は母ゆずり。兄弟は9人いた。

彼が7歳のとき、平和で豊かな一家の生活は一変する。第二次独立戦争のさなか、父のコーヒー園が焼かれたのだ。一家はサンティアゴ・デ・クーバに移住し、困窮生活を送る。しかも父は身体麻痺に。

貧しい公立小学校に進んだフェリックスは、そこでなんと ミゲル・マタモロス と同窓になる。
当時、映画もラジオもない環境で、子供たちはもっぱらビー玉や凧揚げ、キンブンビア(木片を使ったゲーム?)で遊んだ。たまにサーカスが来たが、最高の楽しみは「語り部(cuentero)」の話を聞くこと。どこの村にも必ずいた語り部は、たいてい文盲だった。

以下はF.B.C本人の言葉―
「私の住んでいた辺りの語り部はミゲル・アンドレスという名前だったが、“エル・チノ(中国人)”と呼ばれていた。中国人みたいなムラート(浅黒い肌)で、太った愉快な男だった。彼の話す物語りはすべて彼の想像力の産物だったが、皆ワクワクしながら聞いたものだ。語り部が来るといえば、それはもう一大事だった。
私は、彼が語った冒険談を携えてラジオにデビューしたんだ」。


続きはいつかコメント欄で…