「卵と壁」(3)私にとっての『メモリアス』 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

きょうは(前回のミゲルとのチャット のあと、ブログを更新 し、その日の深夜に)デスノエス に送った手紙を日本語に翻訳して紹介します。

結果的に私が映画『低開発の記憶』に寄せる複雑な思いが表現できたと感じています。


尊敬する友人、エドムンドへ:
最近ようやく自分が(映画)『低開発の記憶』に魅かれた理由のひとつ、つまり

人生におけるパラドックス(逆説)や謎のようなものが何なのか、見えてきた気がしています。
そのきっかけになったのが、村上春樹という世界中に読者をもつ日本の作家のスピーチでした。彼は4ヶ月前、文学賞授受のためにイスラエルに招待され、そこでこのスピーチをしたのですが、その中で彼は「卵と壁」という比喩を用いて、作家の役割を『壁(堅固に構築された“システム”)に対し卵(壊れやすく無防備な個人)の側に立つ』ことだと説いています。
貴方が『いやし難い記憶(原題は『低開発の記憶』)』(筑摩書房/1972年初版)を書いた動機も同じだと思います。


スピーチのなかで、村上は『我々は決して「壁」に利用されたり、支配されたりしてはならない。なぜなら我々がシステムを創ったのであり、それは我々を保護し、守るべき存在なのだから』と訴えています。


私はここにキューバ革命が“システム”に変わってしまったパラドックスがあると思います。そもそもは、真に独立し、人間的な国家を創造しようと願った国民全体の熱意が、ひとたび政治的システムに移行するや、それ自体の存続を模索し、国民が置き去りにされてしまった―

         MARYSOL のキューバ映画修行-言葉は言葉をむさぼる
それだから、セルヒオ(映画『低開発の記憶』の主人公)は独り呟くのです―

 「言葉は言葉をむさぼり、まるで雲のかなた、月の果てのごとく、

 遥か遠い彼方に 個人を置き去りにしてしまう」と。

彼は見放され、迷子になったような心境でいるのでしょう。

セルヒオは、明晰であるがゆえに、何かがおかしいと気づいているのです。


犠牲になった多くの人生を思うとき、本当に胸が苦しく、心が痛みます。


J.A.のブログに、次のようなアレア(『低開発の記憶』監督)の言葉がありました。
―多くの知識人たちが社会階層として自殺する決意を厳かに宣言していた。

本当に実行した者はごくわずかだったが、その時点では、誰もがそれを信じ得ることができたのだ。なぜなら起きていることの全てが、並外れて美しかったから。あまりにも美しすぎたから―


ミサイル危機のとき、知識人だけでなく、ほとんどの庶民も祖国のために命を捧げる用意ができていたといいます。私はその精神を途轍もなく高貴で勇敢だと思うし、だからこそ感嘆するのですが、その一方で非現実的で行き過ぎではないかとも感じます。


三島(由紀夫)は、「人間の生命とは不思議なもので、自分のためだけに生き、自分のためだけに死ぬことができるほど強くない」と言ったそうです。
ある日本のドストエフスキー研究者は、『美と国家に対するマゾヒスティックな献身こそが、「大儀」を裏打ちする最大の根拠たりえる』と書いていました。


キューバの人々は革命に全面的に身を投じたけれど、1961年から革命は政治システムに変質し始めたのではないでしょうか。そしてその傾向は1967年ごろから深まったのではないでしょうか?


私にとって『低開発の記憶』は、耐え難いほど辛いキューバ人の魂の証言であると同時に、永遠にその輝きを失わない作品です。