きょうはとても個人的な思いを書きます(いつもそうですが)。
実はこの春ごろから、そう村上春樹の「壁と卵」(エルサレム賞受賞スピーチ)が話題になった時から、私のなかで集めてきたパズルの断片がようやく形を成してきたように感じています。
どうやらパズルの組み立ても終わりそうな予感―
今回は、大きなヒントとなった村上春樹氏の「壁と卵」を読みながら、
私が(『低開発の記憶』と)共鳴した部分を書き出して見ます。
体制やシステムと、ひとりひとりの人間の心との関わりは、僕が作家として
一貫して書き続けているテーマです。
(おそらく、デスノエスが『いやし難い記憶』を書いた動機も同じでしょう。)
もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったと
したら、私は常に卵の側に立ちます。
もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、
いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?
さて、このメタファーはいったい何を意味するか?ある場合には単純明快です。
爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。
それらに潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民は卵です。
それがこのメタファーのひとつの意味です。
しかしそれだけではありません。そこにはより深い意味もあります。
こう考えてみて下さい。
我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれに
ひとつの卵なのだと。
(中略)
そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。
そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。
冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。
(戦争を起こした日本のこと、ミサイル危機のシーン(低開発の記憶)とセルヒオの孤立が脳裏を過ぎります)
考えてみてください。我々の一人一人には手に取ることのできる、生きた魂があります。
システムにはそれはありません。システムに我々を利用させてはなりません。
システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。
今後はこのメタファーを元に、またキューバの友人やNYのデスノエス氏、ミゲル・コユーラ(続編を製作中)とネットを通して対話をしてみたいと思っています。(ちょっと最近忙しいのですが・・・)
実は、さっき早速ミゲルとチャットしました。
その内容はまた次の機会に。
ようやくモヤモヤした気分が晴れてきました。
写真はすべて映画『低開発の記憶』のラストシーンから。