「お前がこの世からいなくなれば、あの子は俺を見てくれるんじゃないかって、本気で考えた。」
「そんなわけねぇじゃねぇか。バカじゃないか?」
それでも強がって返した言葉。だが、その声は震えていた。強者を目の前にした時の弱者の虚勢が、尚の声からは滲み出ていた。
そんな尚に、頭を下げたままの男は。
「そうだな。オレは大馬鹿者だ。」
「フッ」と小さく笑い、ここで初めて『彼』は顔を上げた。
「君がこの世からいなくなろうが…。あの子の中の16年間の人生は、君なしには語れないものなのに。」
「あぁ?」
頭を上げ、尚を見る男の表情は驚くほど穏やかだった。
先ほどの闇から響く声が嘘のように。鬼畜だと感じたオーラがなかったかのように。
多分、これまでの何度となく相まみえたどの時より優しい顔で、穏やかな声だった。
「16年間のあの子の人生を、君は知っているだろう?」
「あぁ。そりゃあ、あれだけ一緒にいればな。」
鬱陶しいほど傍にいた…。と、振り返りたいところだが、そうでもない。学校では尚は他の友人に囲まれていたし、バンドを組んでからはほとんど家にも帰らなかったから、キョーコと一緒に出かけた思い出は幼少期の話になってしまう。
キョーコはいつも、尚にとって都合のいい位置で笑っていた。
だが、誰よりもキョーコの事を知っていたのは尚。そのことには絶対の自信がある。
「あの子のことだ。他人から見たら幸福とは言えない人生を、それでもあの子の精一杯の努力で幸せになろうと足掻いていたんだろうな。」
「…………。」
母親に冷たくあしらわれ、置いていかれて。辛くて辛くてたまらない時、涙を流していた少女。彼女が本気で泣いた姿を見たのは、尚だって数えるほどしかない。
―――ショーちゃん、私はね。ショーちゃんがいれば他はなぁ~~んにもいらないの―――
キョーコはいつも笑っていた。尚が見る限りでは友人がいるわけでもなく、学校から帰れば、遊ぶ間もなく仲居の仕事を手伝って。尚にしてみたら、何を楽しみにして生きているのか全く分からないような生活を送っていた。
「俺は、あの子のそんな生活を見てきたわけじゃない。あの子が幸せになるためにどんなに懸命に生きてきたのかは、その時傍にいた人間じゃないと分からないんだ。」
「…………。」
『キョーコちゃん、小さな仲居さんゆーてお客様に評判ええのよ。ウチ、鼻が高いわぁ。』
『あの子はスゴイッ、荒削りやけど桂剥きができるで!!』
幼い頃。今となっては思い出したくもない実家。そこで繰り広げられていたキョーコ自慢。ボソボソと交わされていた、尚の両親の会話。
『将来、俺の跡継がせよか!!』
『何言うてるの!!ウチの跡に決まっているやろ!!』
『お前こそ何をアホな事言うてるんや。あの子は桂剥きができるんやで?』
『それこそアホ言いなさんなや。キョーコちゃんみたいに器量のえぇ子は女将になるべきや。』
まるで自分達の子どものように満面の笑みでキョーコについて語る両親を見た。
『キョーコちゃんはほんまにえぇ子やね。ウチの子として生まれてくれたらよかったのになぁ。』
『えぇやないか。もう俺らの子も同然やねんから。』
『ほんまやね。……将来は何になるんやろう。』
『うちを継いでくれたらほんまにえぇんやけどな。』
『フフッ、でもなぁ、あんた?』
『ん?』
『多分やけど。キョーコちゃんにはウチみたいな旅館は小さすぎると思うで?』
ひとしきりキョーコを旅館に縛り付けるような発言をした後に語った、母の言葉。予言するかのように言った母の表情は…。
慈愛に満ちた、娘を想う『母親』の顔だった。
「君なら、知っているだろう?」
「……何を?」
「あの子が、愛されていたことを。あんなに幸せになるために一生懸命だったんだ。あんな子を、誰かが愛さないわけがない。」
今まさに、脳裏に浮かんだ過去の情景。それはまさしく、キョーコが愛されていた過去そのもの。キョーコが知らない、尚だけが目撃した事実。