「………ふぅ~~~………」
深く息を吐きだし、蓮は高鳴る鼓動を落ち着かせようと努めた。
だが、静まる様子のない音に、震えが止まらない指先…。
過去、これほど緊張した状態で玄関先に立ったことがあっただろうか?
そんなことを考えて時計を確認し…それから、「今度こそ」と玄関のドアノブに手を伸ばす。
現在の時刻は20時30分。『敦賀蓮』が仕事を終える時間としてはあまりにも早すぎるが…それでも、玄関先に立ってから30分ほど時間が経過していた。
―――分かった。すぐに調整してくるから、お前は仕事をNGなしで終わらせろよ?―――
マリアと話をしたのは昨夜のことだ。
そして今朝、社に会ってあいさつもそこそこに切り出したことがあった。それは、蓮として個人的すぎる願い出で…言うことを戸惑いつつも口にしたことだった。
「できるだけ、早く仕事を上がらせてほしい」と。
―――何だよ、その目は。すぐ調整してやるって言っているんだ。スケジュールのことはお兄さんに任せて、蓮君はさっさと自分の仕事をしてきなさい。―――
伝えた瞬間に、手帳と携帯電話を取り出した社を呆然と見つめていると、「時間がもったいない!!」と追い立てられた。それでも蓮は背中を押す社の方へ懸命に視線を向けると…。
社は、笑っていたのだ。心から、嬉しそうに。
―――嬉しいんだよ。やっと俺、『お前』と一緒に走れるんだな。―――
その表情に疑問を投げかけると、社はニヤリと笑って、蓮の肩を叩いた。
―――蓮。頼っていいんだぞ。それは、弱さじゃない。人に頼るっていうことはな…―――
呆けたように社を見つめる蓮。『業界1』の色男が見せた素の表情を嬉しそうに見つめ…優秀なマネージャーは言葉を続ける。
―――相手を信じる、強さなんだ。―――
「…………。」
言われるまでもなく、知っていると思っていたことだった。蓮は、『彼女』を信じ、頼ることで無限の力を手に入れた。乗り越えられないと思えた壁さえも、越えることができたのだ。
……ダークムーンの嘉月の恋心も……トレジック・マーカーのBJ役も……
だが、それらは決して、蓮が全てを話して得られた力ではない。それは、無意識のうちにキョーコが蓮にもたらす、奇跡のような魔法達だった。キョーコを信じ、頼る一方で…蓮は、彼女が聞かないのをいいことに、何一つ真実を告げないまま、その魔法の力だけを受け取っていた。
―――それが正しい関係なわけが、ないのに……―――
「おかえりなさい、敦賀さん。」
「……最上、さん……。」
玄関扉を開けて、リビングルームへと足を踏み入れると、ガラスのテーブルに教科書とノートを開き、ラグに座りこむキョーコがいた。
「おかえりなさい。」
「ただい、ま……。」
蓮のマンションの間取りを完全に模したゲストルームで過ごすようになって、久しぶりに交わす会話は、迎えられるあいさつと、それに応じるあいさつ。
乾いてしまった喉の奥から零れ出た言葉は、他愛ないあいさつのはずなのに、口にした瞬間に胸が熱くなる。
「今日は、早かったんですね。いつももっと遅く帰られるのに。」
「え?」
「…あっ……。…すみません、その…。やっぱり、一緒に暮らしているわけですから。…気になっちゃって。毎日早くに出て行かれて、遅くに帰られるから…体調とか、崩されないのかな~と…。」
しどろもどろに答えるキョーコ。そのキョーコの語る事実に、蓮は大きく目を見開く。
帰ってきても、物音ひとつたてず…まるでここにはいないかのように、気配を感じさせなかったのに。
「…すみません、嫌…ですよね?監視されているみたいで。ごめんなさい…。これから、気をつけますから。」
「いや…あの……。」
違うのだと、言いたかった。だが、言葉が出ない。どう伝えたらいいのか、どう行動したらいいのかが分からない。
「そういえば、夕飯はどうされたんですか?いつもよりお早いですが、お弁当とか、出ましたか?」
「え?…あ、いや。まだ食べてないね、そういえば……。」
ぎこちなく二人の間に訪れる沈黙。居心地の悪い空気を払拭するかのように明るい声で話題を転じたのはキョーコのほうだった。蓮はにこりと笑って問われた質問に、正直に答えた。それに対してキョーコは「そうですか…」と呟き、小首を傾げる。
「あの…最上、さん?」
「ちょっとお待ちくださいね?お口に合うかはわかりませんが、今日作った残り物ならありますので。」
立ちあがったキョーコは、キッチンへと足を向ける。その様子を蓮は戸惑いながら視線で追いかけ…完全にキョーコが姿を消した途端、ソファへと身体を沈めこませた。
「ふぅ~~~~……」
天井を見上げ、長い息を吐く。それから、ゆっくりと目を閉じた。
―――…情けない…―――
今日、社に無理を言って帰ってきたのは、キョーコに謝るためだったはずだ。感情のままに彼女に怒りをぶつけ、ひどい言葉を言った昨日の事や…避けるような態度を取り続けてきたことを。
なのに、結局は彼女の言動で救われている。
―――おかえりなさい、敦賀さん―――
過去、何度聞いただろう、迎え入れられる言葉。ここが居場所なのだと、帰ってくる所なのだと、教えてくれるその優しい言の葉。
…彼女が当たり前のように言ってくれたから、こんなに胸が熱くなるような言葉だなんて、思わなかった…。
―――おかえりなさい…―――
それは、魔法の言葉。
ただその一言で幸せになれてしまう。当然のように受けていた何気ないものでも、本当はこんなにも大切なことだった。
「…………。」
また、同じように言ってくれるのだろうか。笑顔で、迎え入れてくれる日がくるのだろうか。心から謝れば、また笑ってくれるのだろうか……。