古典的自由主義者のささやき

経済の問題は、一見複雑で難しそうに見えますが、このブログでは、経済学の予備知識を用いずに、日常の身の回りの体験から出発して経済のからくりを理解することを目指します。

はじめに:(本文はこの文の下)

自分の考え方の旗色を鮮明にするために古典的自由主義者(クラシカルリベラル)と名乗りました。しかし、これは自分をまず何々主義者と決めて思想の出発点とするという意味ではなく、逆に自分が今までに到達したモノの考え方を分類するとすれば古典的自由主義が一番近いということです。

本当は簡単に自由主義者(リベラル)と言えれば楽なのだけど、今どき、特に米国などでは自由主義は福祉国家主義、場合によっては社会主義、と同義だと見なされているので避けました。

また、リバタリアンという語を使うと自由主義者(リベラル)という歴史のある言葉を福祉国家主義者や社会主義者に明け渡してしまう気がするので、本来のという意味で「古典的」という語を加えてでも自由主義者という言葉を使い続けるつもりです。

このブログでは、自由貿易などの経済の問題から地方自治、教育、環境問題などについての私の考え方を紹介してゆきたいと思っています。

以下、ブログ本文です。




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今まで一週間に大体二回の頻度で記事を更新してきましたが、最近記事を書く時間がなかなか取れないので、今後は更新を不定期といたします。これからどれくらいの頻度で更新が出来るかまだ分かりません。

ただ、更新の頻度は下がっても、貧富の格差、国際援助、貿易の自由化、公教育、雇用差別、移民など、取り上げてみたい題材はたくさんあるので、ブログ記事の更新は続けます。

今後も宜しくお願いいたします。
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前回のコラムで、経済の視点からは、「市場の失敗」が起っていることが政府の市場への介入の正当化に使われること、そして、市場の失敗とは自由な物やサービスの交換に任せておけば経済効率性が達成できない状態であることを説明しました。

市場の失敗があるから政府が市場に介入しなければならないという主張は、市場は駄目だから何か他の生産と分配の制度に置き換えようという主張ではありません。市場の失敗論は、経済効率性は市場によってこそ達成出来るということ、つまり人々の自由な交換を通じてこそ、社会の構成員の一人一人が限られた資源の制約の中で一番満足出来る形で資源の配分や生産物の分配が行われるという理解を前提にしています。この前提を受け入れた上で、ただ食品の安全性など特定の物やサービスの市場に関しては、経済効率性の達成が妨げられているので、政府の介入によって「市場を矯正」しようというのが市場の失敗論です。


では、食品の安全性の市場はどういう点で経済効率性を達成することに失敗しているのでしょうか。食品の安全性に関する市場の失敗論を要約すると、「消費者が購入する食品の安全性に関する完全な情報が提供されていないので、たとえより安全な食品を購入したがっている消費者でも、高い金を払ってまで安全性がはっきり分からないものを購入しようとはしない。つまり安全性に金を払いたい消費者の需要が不完全な情報のために満たされていない」というものです。今回は、この「不完全情報」による食品安全市場の失敗論を吟味します。

まず、商品の情報が不完全であれば市場の失敗が起るのでしょうか。架空の例を使って考えてみましょう。

今仮に、林檎や蜜柑や柿や桃などの果物は必ず不透明な袋に入れて売らなければらないという変な規則のある社会があったとします。こんな社会では、消費者は林檎を買おうにも袋の中の果物が林檎かどうか分かりません。今の季節は林檎が珍しく、多少高値を払っても林檎を購入したがっている消費者がいたとしても、林檎だと思って買った果物が実は林檎でない可能性がある以上、林檎を買い控える消費者が出てきます。つまり、自分の収入の一部を自発的に林檎の消費に回そうと思っている消費者の需要が袋の中身が何であるかの情報が欠如しているがために満たされないのです。結果として、消費者は林檎に使ったであろう金を蜜柑だとか衣類だとか貯金など何か他の目的に割り当てます。

果物は不透明な袋に入れて売らねばならないという規則が常に存在しているこの社会では売れる林檎の量が抑えられているので、そういう規則が存在しない場合に較べて林檎の生産のために使われる資源の量が少なくなっています。この奇妙な規則がなければ、土地、労働力、肥料、燃料などの資源が今よりも多く林檎の生産に使われていたはずです。

要するに、変な規則による情報不完全のために、消費者が自分の収入を林檎の購入も含めた様々な目的に自由に割り振ることが妨げられ、また社会の中で様々な資源の配分がゆがめられることになります。この状態では経済効率性が達成されず、市場の失敗が起っていることになります。


では、食品の安全性にも同じ議論が当てはまるのでしょうか。スーパーマーケットに並ぶ食品の安全性は、その外見を見ただけではなかなか分かりません。見た目によって安全性が判断しにくいという点においては食品の安全性は不透明な袋に入った林檎に似ています。従って、食品の安全性に関して市場の失敗が起っているという議論は一応もっともに聞こえます。ところが、市場における食品の安全性情報の提供が不完全であるがために市場の失敗が起っているという議論には幾つかの根本的な問題があります。もっともらしい議論を提示しただけでは市場の失敗の証明にはならず、政府の市場への介入を正当化出来ません。


袋入りでしか果物を売ってはならない社会の例では、この変な規則を撤廃するだけで、つまりタダで、市場の失敗を取り除くことができます。ところが、食品の安全性に関する情報の供給を増やすのはタダでは出来ません。安全性に関する情報の中でも、食品の色や匂いなどは今でも殆んどタダで提供されています。しかし、それ以上に商品の安全性に関するラベルを増やすとなると余分な費用が必要となります。商品を包装して販売する業者は、ラベルが示す商品の安全性を裏付ける情報を中間業者や加工業者を通じて生産地まで遡って収集しなければなりません。もちろんこれはタダでは出来ません。安全性に関する情報は「完全」にしようとすればするほど費用が嵩むという性質を持っています。

つまり、食品の安全性を示すラベルなどは、供給するために費用がかかる「情報商品」なのです。情報商品に限らず、費用がかかる商品を供給するためには、社会の中で今生産・消費されている何か他の物やサービスを犠牲にする必要があります。利用できる資源に限りがある以上、情報商品のように費用が嵩む商品は「完全」な量供給されることはありません。商品が「完全」に供給されている状態のユートピアを想定して、現在の市場を断罪する基準とするのは適切ではありません。つまり、安全性にかかわる情報が「完全に」消費者に供給されていないことをもって市場の失敗が起っているとはいうのは根本的に間違っています。


近年バーコードなどの情報技術の進歩によって、安全性など食品についての様々な情報が生産地から消費地まで伝達されるようになりました。流通網を通じての情報伝達が容易になったと同時に、消費者の食品の安全性に対する需要が高まるにつれて、これまで提供されていなかった様々な情報がラベルの形で提供されるようになりました。食品の安全にかかわる情報も含めて、全ての物やサービスは、時代の技術力の制約の中で消費者の需要に合わせて提供されています。そして、資源の配分と生産物の分配が人々が一番満足できる形で行われていれば、情報供給に必要な技術開発にも人々の需要を反映するように資源が割り当てられます。食品の安全性に関する情報を消費者が強く求めるなら、その需要を満たすように特定の技術が進歩してゆくのです。市場に失敗が無いにもかかわらず、政府が市場に介入することは、消費者が求める物やサービスの生産のための資源の配分を滞らせ、消費者が強く求める物やサービスの供給を可能にする将来の技術進歩を妨げます。


食品製造業者はどんな材料を仕入れて、どういう方法で自分の商品を加工しているかを知っているが、消費者は店頭に並べられた食品を見て購入するしかないので、危険な食品を掴まされる可能性を恐れて食品全体を買い控えることになる、という議論が出るかもしれません。

しかし、外見だけで安全性が分かりにくいというのは食品という商品の性質であって、食品製造業者のせいではありません。むしろ、業者にしてみれば安全な食品を売ってこそ顧客を引き付けて営業成績を伸ばすことが出来るので、より工夫を凝らして自分の商品が安全であることを顧客に訴えようとします。上の例に挙げた果物を不透明な袋に入れて売ることが義務付けれている社会でも、売り手は直ぐに袋に果物の名前を書いて売り始めるに違いありません。それでも信用しない客に対しては、表示に偽りがあれば直ちに交換すると約束する店も出てくるでしょう。

そもそも、買い手が存在するのに買い手の需要を満たすような商品が売られていない状態は、規制を導入しようとしている人たちにとっては市場の失敗のように見えるかもしれませんが、商売人にとってはそれは絶好の儲けの機会です。新しい商品が登場し、消費者の需要が満たされてゆきます。市場は静止状態にあるのではなくいつも変化しているのです。


商品経済が発達すると、人々は食物を自分で生産するのを止めて遠くで作られた安い食料を購入するようになります。しかし、これには危険が伴います。村の顔見知りの八百屋なら腐った林檎を直ぐに返しに行けます。返品を受け付けないようなら、村中で八百屋の信用が落ち商売が出来なくなります。それに較べて、価格は低くても誰が何処で作ったのかわからない物を食べるのは不安です。村が大きな経済圏に組み込まれた当初は、何処からともなく現われた商人に品質の劣る商品を掴まされたこともあったでしょう。

しかし、村々が大きな経済圏に組み込まれた時代から、顔見知りではない相手から誰が作ったか分からない物を購入する際のリスクを軽減するような仕組みを市場は発達させてきました。ブランドがその例です。今我々の社会では様々な商品に様々なブランドがありますが、これらのブランドは全て多くの消費者の取捨選択の結果生まれてきたものです。

安全な食品を提供する新技術を導入しても、直ぐ他の企業に真似されるから、だれも新技術の開発に金を使わないという意見があります。しかし、技術は直ぐには真似出来ません。一旦確立されたブランドは直ぐには消えないので、他の企業が同じ技術を導入しても真っ先に新技術を導入してブランド名を確立した企業は長い間技術投資の見返りを受けることが出来ます。


以上のように、安全性に関する情報が不完全だから市場が失敗しているという議論は、一見もっともに見えるだけで、市場の失敗が起っている説明としては不十分です。市場では技術の制約のなかで、消費者の需要に合わせて食品の販売業者が食品の安全性を高めています。このように消費者の需要に合わせて安全性を向上し続けている市場が失敗しているようには見えません。曲がりなりにも時代の技術の制約のなかで経済効率性は達成されているように見えます。

前回のコラムで説明したように、経済効率性は自由な市場によってこそ達成されるという前提が存在します。この前提があるにもかかわらず政府が市場への介入を主張するためには、介入しようとする市場で市場の失敗が起っていることを証明する必要があります。立証の責任は、市場への介入を主張する側に存在するのです。ところが、上で説明したように、不完全情報による食品安全市場の失敗論はもっともらしい解釈に過ぎず、証明にはなっていません。

では、食品の安全性市場で市場の失敗が起っているという証明はあるのでしょうか。費用便益分析という手法を用いて食品の安全性市場における市場の失敗を証明しようという試みがなされています。次回は、食品の安全に関する費用便益分析を取り上げます。


以前のコラムもご覧下さい。
「大企業は悪か」



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現在世界の多くの国々で政府によって食品の安全にかかわる規制が制定され、さらに政府によってこの規制の遵守が監督されています。食中毒事件がニュースになるたびに、政府は規制をさらに強化しなければならないという意見が強く主張されるのも多くの国に共通の現象です。我々が購入する食品の安全は政府の規制によって保たれているというのが暗黙の前提として広く受け入れられています。

今回のコラムから数度に分けて、この暗黙の前提を吟味してみます。具体的には、政府による食品の安全規制は食品の安全性の向上を通して人々の生活の向上に貢献出来るのか、という問題を考えてみます。


市場への介入を含む政府の諸政策は、為政者によって特に正当な理由がなくとも導入されているのが現実です。ところが、我々の多くが住む自由な交換を生産と分配の基本とする社会では、少なくとも限られた資源の配分と生産物の分配に関する経済の視点からは、政府の市場への介入は、自由な交換に任せておいたら経済効率性が達成されないという「市場の失敗論」によって正当化されています。食品の安全性に政府による安全規制が認められている経済上の正当性も、ただ単に政府が食品の安全性を向上出来るからということではなく、自由な交換に基づく市場に任せておけば「経済効率性は達成されない」という議論が根拠となっています。


そこでシリーズ一回目の今回は、この「経済効率性」とは何かを説明し、なぜ食品の安全性が経済効率性にかかわる問題なのかを説明します。


人々は手に入れることが出来る資源を用いて、食品、住居、衣類、医療、教育、娯楽の確保など様々な必要を満たしています。ただ単に食品を確保するのではなく、安全な食品を確保するというのもその必要の一つです。人間の社会では、現在の技術で獲得出来る限られた量や種類の資源を使って、人々が手分けして必要を満たす物やサービスを作り、さらに生産された物やサービスを人々に分配するということが行われています。

そして、我々の多くが住む社会では、殆んどの物やサービスの生産と分配は、個々人が自由に自分の労働力を使って分業に従事して物やサービスを生産し、さらに生産した物やサービスは持ち主が自由に交換するという方法で行っています。

我々の社会がこの「自由市場」という生産と分配の方法を、紆余曲折や程度の差はありながらも、歴史上大きく変えることなく行い続けて今日に至っている一つの理由は、制約のある資源の量の範囲内で社会を構成する一人一人が一番満足出来るような物やサービスの生産と分配は、自由市場による生産と分配によってこそ行うことが出来るという理解が社会に存在することです。つまり、人それぞれ何の生産に従事出来るか得意分野も違うし、分配して欲しい物の好みや必要性も異なるという現実の中で、誰が何を使って何をどれだけ生産して誰が何をどれだけ使うかは、自由な交換を通じて社会を構成する個々人に勝手に決めてもらうのが、一人一人が満足するためには一番よいという理解があるのです。

資源の量の制約の範囲内で、社会を構成する一人一人が自由な交換を通じて一番満足出来るような物やサービスの生産と分配が行われることが、「経済効率性が達成された状態」の定義です。言い換えると、人々が自分の労働力や労働の成果を自分の意思で自由に交換出来るときに生ずる資源の配分と生産物の分配の結果を、「経済効率性が達成された」と呼ぶのです。


政府が取引の規制を設けて市場に介入するということは、人々の自由な交換を制限するということなので、上の経済効率性の定義から、政府の市場介入によって経済効率性が損なわれるという結論が生まれます。従って、市場が経済効率性を達成するという上記の理解が存在する以上、少なくとも経済の視点からは、政府の市場介入を認めるには何らかの正当な理由が必要です。そして、この理由として「市場の失敗」が挙げられるのです。市場が失敗しているかどうか、つまり政府による市場への介入が正当化されるかどうかは、市場において経済効率性が達成されているかいないかにかかっています。


経済効率性に関して注意しなければならないのは、経済効率性が達成された状態であっても、社会の構成員に同じ物やサービスが同じ量分配されるとは限らないということです。人それぞれ得意な分野や好みや必要性が異なるので、自由な交換の結果として必然的に、各人が様々な物やサービスを異なる量受け取ることになります。従って、物やサービスが人々に均等に行き渡っていないことをもって市場が失敗しているとは言えません。

また、「命は金に代えられない。食品の安全性は命にかかわる問題だ。だから、食品の安全性に関する議論に経済の視点を持ち込むのは間違っている」という主張があります。しかし、安全性を向上させることが資源を消費する、つまり金のかかる活動である以上、安全性を今よりも向上させるべきかどうかという問題は、経済の問題です。

人々の収入に限りがある限り、特定のリスクを減らすためには、食品、衣類、住居、教育など、何か他の必要性を満たすための支出を多少なりとも犠牲にする必要があります。値は張るが安全性の高い自動車の購入費用を捻出するために、家屋の防震対策を諦めるという人がいるかもしれません。この人の場合には、交通事故のリスクと、家屋が地震の被害に遭うリスクとを天秤に掛けて、自分の運転技能や収入、さらに家屋がある場所を考慮に入れて、交通事故のリスク対策を優先したことになります。たとえ意識していなくとも、人々は限られた資源の配分という経済上の計算を日常生活の中で行っています。要するに、安全性をより向上させることがより資源を消費する、つまりより金がかかる活動である以上、安全性を今よりも向上させるべきかどうかという問題は、実は資源の配分と生産物の分配にかかわる経済の問題なのです。

さらに、食品の安全性も含めて、人々の願望が叶えられる程度に、物やサービスが手に入らないからといって市場の失敗が起っているとは言えません。食品の安全性を高めようとすればするほど、衛生管理などに費用が嵩みます。食品の安全性を高めることで他のリスクを減らしたり、他の必要性を満たすことを犠牲にしなければならない人々は、食品の安全性がある程度達成されると、さらに資源を食品の安全性向上に割り当てることを止めて残りの資源を他に重視する必要性を満たすために使い始めます。人々の間に食品を完全に安全にしたいという願望があったとしても、食品の安全性向上のために資源を必要とする限り、人々の自発的な選択によっても食品が完全に安全になることはないでしょう。


食品の安全性の市場においても「市場の失敗」が起っているという議論があり、経済上は、政府の食品の安全規制はこの議論に基づいて正当化されています。次回のコラムでは、食品の安全についての市場の失敗論を紹介し、その問題点を指摘します。



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本シリーズのこれまでのコラムで、人間が常に自分を豊かにしようと努める動物であること、そしてその人間同士が合意の上で労働と労働の成果を取引する自由が保障されていれば社会の生産性は長い目で見れば上昇してゆくこと、さらに、社会の生産性が上がれば賃金も上がるということを説明しました。つまり、人間の性質が変わらない限り、取引の自由があれば賃金が下がり続けるということはないのです。

景気が後退して失業者が増えると、政府は支出を増やして景気を好転させようとします。ところが実際には、政府の支出を増やせば増やすほど生産性の上昇は妨げられ、挙句の果てには生産性の低下を招きます。今回は、なぜ政府支出が増えると生産性の低下を招くことになるのかを説明します。


政府が行う投資活動のことを「公共投資」と呼びます。一般的には、政府がダムや橋や港湾の建設など建設事業に金を出すことを公共投資と呼びますが、石油に代わる代替エネルギー源の技術開発と実用化に政府が金を出したり、経営難に陥った企業を倒産から救うために政府が金をつぎ込むのも政府が行う投資という意味では公共投資です。

公共投資のための金を政府が獲得する方法は三通りあります。まず税として人々から金を巻き上げるという方法があります。第二に、政府が国の借金証書である国債を人々に売って金を得る方法があります。人々に貯金が無ければ国債は絶対に売れません。つまり、国債を売ることによって政府は人々の貯金を集めていることになります。最後に、政府が中央銀行に札を増刷させて、その増刷分を獲得するという方法があります。中央銀行が自らが増刷した紙幣を用いて政府が発行する国債を買い取るという込み入った方法は、結局のところ中央銀行が増刷した紙幣を政府が受け取るので最後の方法と同じです。

これら三つのやり方を用いることで、交換は当事者の合意のもとに行われるという原則を政府は破っています。まず、税額は政府によって一方的に決められ、徴税は強制的に行われます。納税を拒否し続けると、最終的には刑務所に入れられて身体の自由を物理的に束縛されます。

政府は国債を買うように人々を強制していないと主張する人がいるかもしれません。確かに、国債を買う人は政府が国債の元金や利子を払ってくれることをあてにして自由な意思によって購入しています。しかし、その元金や利子は政府が国民から強制的に徴収している税から支払われています。つまり、国債によって金を集めるという制度そのものが交換の自由を奪うことによって成り立っているということです。

国債は民間企業の借金より利率が低いことが多いのですが、それは金を貸した相手の倒産によって貸した金が返って来なくなるリスクを避けようとする人々が、多少利率が低くても、倒産の危険の少ない政府に金を貸したがるからです。そして、民間企業に較べて政府に倒産の危険性が少ないのは、民間企業と異なり、政府には警察力をもって人々から税を徴収する力が与えられているからです。

政府が水増し紙幣を支払いに使い続けることが出来るのは、究極的には、社会の構成員は中央銀行が発行する貨幣を取引の代金として受け取ることを拒否することが法律で禁止されているからです。これは、取引は当事者の合意によるという取引の自由の制限です。


政府が、自らが使う金を当事者の合意に基づくことなく徴収出来るということ、さらに強制的に集められたこの金の使い道が、政治家や役人という、この金の持ち主でない人たちによって決められるという二点が、公共投資が社会の生産性向上に役立たないどころか、逆に生産性の低下をもたらし得る根本的な原因です。以下に理由を説明します。


人々に自分の労働と労働の成果を売る自由が保障されていれば、誰も自分を豊かにしない物やサービスを購入しません。購入することで豊かになると世界で誰一人として思わない商品やサービスは、取引の自由のある社会では当然ながら売れません。そういう社会では、売れない商品やサービスの生産を続ける企業は倒産の憂き目に遭って淘汰されます。その結果、人々を豊かにする商品やサービスだけが生産を続けられ、さらに人々の工夫と努力によってこれらの商品やサービスの価格が下がるので、人々はさらに豊かになります。つまり、社会の生産性が向上するのです。


ところが、政府の元に強制的に集められた多額の資金の使い道を決めるのは、政治家や役人です。政治家や役人は、自分の労働や労働の成果の交換によってこれらの金を得たわけではありません。我々の多くが居住する民主主義国家では、政治家や役人にはこの金を私物化することは許されていませんが、政府に集まった金の使い道を決める権限は与えられています。

さらに、政治家はいつも次の選挙を念頭に、政府に「委託」された金の使い道を決めています。それに選挙は建前上、政治家に預けた金が自分たちの利益のために使われたかどうかを国民が裁定を下す機会です。つまり、ある政治家が再選されたとすれば、表向きは国民がその政治家が決めた金の使い道を追認したということです。

不景気の最中で街が失業者で溢れている時には、失業者に職を与えることで政治家は再選を目指します。したがって、政治家は政府に集まった金を「仕事」を増やす事業に投資します。政治家にとって、この「公共投資」の究極の目的はただ仕事を増して選挙に勝つことであって、集まった資金を社会の生産性を上げるのに見込みのある事業に投資することではありません。例えば、公共投資事業として水力発電のための巨大ダムを建設した後で、この発電所からの電気の需要が皆無であったと判明しても、政治家にとっては、ダム建設が仕事を増やし職を得た失業者の票によって再選が叶えば、ダム建設の「投資事業」は「成功」なのです。

さらに、社会の生産性を上げるという意味での投資としては失敗であることがすでに判明している事業に対しても、その事業が依然仕事を作り続けそれが自身の再選に役立つならば、政治家は資金の投入を続けます。政治家が強制的に集められた政府の資金を使えるかぎり、これは自然なことです。

政治家の監督の下で公共投資の細目を決める役人も政治家と同様に、納税者から徴収した「他人(ひと)の金」の使い道を決めています。投資事業を事前に細かく検討して社会の生産性の向上に成功しても、役人の給料は成功の金銭的見返りを受けて上がるわけではありません。逆に、自分が実施にかかわった事業が生産性向上に失敗したとしても、首になるわけでもないし退職金が減るわけでもありません。むしろ、社会の生産性を向上する事業を選りすぐって行うより、生産性向上には役に立たずとも、とにかくより多くの事業を実施すれば、より多くの役所や役人が必要となるので、そうした方が役人にとっては出世の機会が増えます。政府事業を推進することで再選されている政治家にとっては、これら政府事業の増大で膨れ上がった官僚機構が、政府予算の獲得争いの強力な援軍になってくれます。

昔、失業者が多い時に、自分が許可した高速道路網建設の国家事業に、土木機械の使用を抑えて人力を出来るだけ多く使わせることで、多数の失業者を雇って彼らの支持を得ることに成功し、後に独裁者になった政治家がいたそうです。極端な話、ただ「仕事」を増やすのが目的ならば、わざわざ政府事業を実施しなくとも、土木機械だけでなく農業機械や自動車の使用を禁止すればよいのです。しかし、農業機械や自動車を禁止すると、同じだけの食糧の生産や輸送に必要な人の数は増えるかわりに、生産・輸送される食糧が大幅に減少します。農業機械や自動車が発明された後、人口が増加しているのには理由があります。農業機械や自動車が禁止されると、現在の人口を支えるだけの食糧の生産と輸送は出来なくなるでしょう。人間は仕事のために仕事をするのではありません。個々の人間は、自分が豊かになれるように何かの目的をもって仕事をするのです。

単に仕事を増やすために実施される国家事業は社会の生産性を向上させることからはおよそ程遠いので、社会が同じだけの有用な物やサービスを生産するために必要な労働力を増大させるだけです。このような国家事業が大規模に長く続けば、実際に生産される有用な物やサービスの量が減少し続けるでしょう。これは人類の文明の後退です。政治家が仕事を作ることだけを目的として導入した国家事業が数多く続けられると、社会の生産性の後退が続き、単位労働時間当たりに得られる物とサービスの量、つまり賃金が低下し続けます。

人類の文明をも後退させうる政府事業は、強制的に集められた資金の使い道を政治家と役人が決めるという制度があって初めて可能です。人力を節約出来る土木機械が存在するのにそれを使用しないならば、道路建設の費用が嵩みます。あくまで当事者の合意に基づいて労働と労働の成果を交換する自由が保障されている社会では、人々は交換に要する自分の労働の成果を無駄にしてまで、技術の恩恵を拒否して同じものに余分な費用は払いません。観光地で馬車に乗って楽しむことはあっても、日常の生活においては人々は自動車や電車や飛行機を利用しています。交換の自由がある社会では、費用や時間が節約できる新しい移動手段が登場すると人々はそれに乗り換えます。自由な市場において人々が費用や時間を節約できる新しい技術を捨てて人力に戻るということは、大きな戦争や天災で生産設備の大量破壊や科学技術を保有する多くの人材の喪失が起こらない限りあり得ません。

つまり、自分が働いた成果を人と交換することで、生活に必要なものや自由時間を得ている人々は、自分を豊かにしないものを自発的に購入することはないということが、社会の生産性が低下することを防いでいるのです。人を雇って穴を掘らせ、さらに人を雇ってその穴を埋めさせるような無意味かつ無駄な仕事に賃金を払えるのは、人から巻き上げた金をばら撒く権限がある政府だけです。生産性の低下と文明の後退をもたらす公共投資は、人々から交換の自由を奪ったときに初めて可能になるのです。


不景気の最中には、多くの企業の倒産によって多くの工場や工作機械が売りに出され、失業者が増えています。これらの資本が再び人々を豊かにする生産活動に雇用されて社会が不景気から脱却するためには、新しく企業が興って、それらが工場や工作機械の購入し失業者を雇い始めなければなりません。

社会がどんな物やサービスの生産で豊かになるかは、社会を構成する個々の人々が、自分たちの自腹を切って何を選んで購入したかという結果によって初めて明らかになります。不景気の最中であっても、人間は生きるために物とサービスは購入しています。これらの物やサービスを安く提供できれば人々はより多くの物やサービスを購入します。また、不景気の最中でも、生活を便利にし時間を節約できる新しい物やサービスを人々の手が届く範囲で提供すれば、人々はそれらを購入します。

もちろん、人々が求めるものを見つけ出しそれを安く提供することは容易ではありません。投資を集めて起業に成功しても、期待したほど消費者の購買が得られず倒産を余儀なくされる企業もあるでしょう。進取の気性に富む多くの人がアイデアを投資家に売り込んで起業するのですが、その新興企業の一部だけが顧客を引き付けることに成功して成長してゆきます。この市場淘汰の過程があってこそ、人々が望んでいるものを手に届く価格で生産出来る、すなわち人々を豊かに出来る投資事業だけが選りすぐられるのです。この市場淘汰の過程が絶え間なく繰り返されることで、社会の生産性が向上し続けます。

社会が生産性を上げ続けるために不可欠な市場の淘汰機能を、人から巻き上げた金をただばら撒くことが出来る政治家と役人が肩代わりすることは不可能です。工場や工作機械や失業者をとにかく金を払って雇い上げて、何でも良いからやらせておくという失業対策としての公共投資の問題は、政府が使う金を無駄にしているだけではありません。失業対策の公共投資は、同時に、利用目的を失った資本を政府の金で雇い続けることにより、資本を無駄な目的に縛り付けて生産性を高める生産活動に移行することを妨げているのです。公共投資は不景気を助長します。従って、社会を不景気から出来るだけ早く脱却させるためには、公共投資のために政府が人々から金を巻き上げるのを止めさせる必要があります。


不景気の最中に失業することは苦しいことです。失業者が沢山いるので、限られた数の職を得ようと多くの失業者が争い賃金が低下します。そういう中で、仕事を「創出」してくれる政治家を支持する人が増えるのは自然な成り行きです。しかし、仕事を作ってくれる政府は、実は救世主でもなんでもなく、かえって景気の回復を妨げ賃金の低下を長引かせているのです。

社会を不景気から救うのは進取の精神に富み、倒産を恐れずに起業する人たちです。不景気の最中に財布の紐のかたくなった消費者を満足させる商品を、消費者が望む価格で市場に出すのは容易ではありません。しかし、不景気だからこそ、生産設備や労働力などの価格が下がっていることが彼らの起業の助けになります。新しく企業を起こそうとしている人が、価格の下がった生産設備を買い上げたり、賃金の下がった失業者を雇い入れたときに、「不当な価格で安く買い叩いている」と非難するのは間違っています。失敗を恐れずに新しく企業を起こす人がいて初めて、倒産によって投げ出された生産設備や失業者が再び人々の生活を豊かにすることに貢献出来るようになるとともに、景気の回復も可能になるのです。



以前のコラムも合わせてご覧下さい:
「自由な市場では賃金は下がり続けない (1): 労働を売る自由」
「自由な市場では賃金は下がり続けない (2): 労働組合・解雇規制・最低賃金法の害」
「自由な市場では賃金は下がり続けない (3): 賃金を下げ続ける低金利政策」
「貯蓄・銀行・中央銀行(4) - 貨幣水増しの中期症状」(後半で、公共投資事業が社会の生産性向上に結びつくことが少ない理由を本コラムとは別の視点から説明しています)
「大きな政府は経済成長を妨げる」(後半の段落の一つで、政府が行う生産活動が民間に較べて割高で、且つ質が劣る理由を説明しています)



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人間は常々、豊かになるにはどうすればよいかということを考えながら生きている動物です。人間は自給自足生活をしていても、同じ労働量あたり出来るだけ多くのものを消費出来るように工夫するし、また同じ量のものを生産するなら出来るだけ楽をしてその分自由時間を作ろうとします。

そんな人間が他の人とものの交換が出来るようになると、同じ労働量でさらに多くのものを生産しようとします。自分が育てた小麦を自分だけで消費している人は、一人で食いきれないほどの小麦を増産し続けることはありませんが、余った小麦を人と交換して他に欲しいものが手に入るなら、人間は自分では食べきれない量の小麦を生産するために精を出します。

ものの交換があくまで交換する者同士の合意のもとで行われるなら、小麦との交換で他のものを得ている人は、より多くのものを得るためにより多くの小麦を人に提供出来るように努力します。もちろん、より多くの畑を耕すことで小麦の増産が達成できますが、人間が一日に働ける時間は限られているし、そもそも野良仕事自体が骨の折れる作業です。人間は楽をしたがるものなので、できれば単位労働時間当たりの小麦の収穫量、つまり生産性を上げようといつも考えています。自分の生産性が上がって他の人に提供できるものの量が増えれば、交換でより多くのものが得られます。そして、だれかが生産性を上げるいい方法を見つけたら、周りの人はすぐそれを真似します。人間の創意工夫と努力によって、一つの産業だけでなく社会の全ての産業で生産性が上がってゆきます。

しかし、このように社会の生産性が上がるためには、交換が個々人の自由意志によって行われることが重要です。なぜなら、他の人からものを強奪したり、他の人を強制労働に従事させて成果を奪うことが出来るなら、人間は奪うことに熱心になり、生産性を高めるための努力を怠るようになるからです。

さらにもう一つ重要なことは、人々が交換に従事して必要なものを得ている社会では、交換相手の生産性が上がると、自分の生産性が上がってなくとも自分が得られるものが増えるということです。例えば、小麦を生産する自分の生産性が上がらなくとも、衣類を生産している人の生産性が上がれば、その衣類製造業者は今までと同じ量の小麦に対して今までよりも多い衣類を交換するようになります。なぜなら、衣類の生産性を倍にした人が衣類を以前より少しだけ値引きして提供するだけで、人々が競ってこの人と自分の生産した小麦や野菜や肉などを交換したがるからです。つまり、この衣類製造者が自身の生産性を上げただけで、この人と小麦や野菜や肉を交換する人までが今までよりも余分に衣類が得られるようになります。

交換相手の生産性が高まれば、自分の生産性が上がっていなくとも今までに較べると余分にものが得られるようになるのは、労働力を人に提供している場合も同じです。例えば、小麦農家がコンバイン収穫機などの農業機械を導入すれば、小麦の生産性は格段に上がります。そうすると、小麦農家に労働力を提供して賃金を得ている人は、自分の小麦を刈り取る能力が上がっていなくとも、今までのように腰を曲げて鎌を使って麦を刈らずにコンバインを操作するという比較的楽な仕事をして、今までに較べて多くの賃金を得ることが出来るようになります。なぜなら、機械を導入して生産性を上げた農家にすれば、一人当たりに対して今までよりも多額の賃金を払って人を雇っても割が合うし、また他の農家全員が機械を導入すれば、自分のところの農業機械を操作してくれる人を雇うために他の雇い主との雇用競争に打ち勝つ必要があるからです。すなわち、社会の生産性が上がれば、たとえ働く人本人の能力が向上していなくとも賃金は上昇するのです。

もちろん、小麦生産の機械化が進めば、生産性が上がるのと同時に、必要とされる人の数は減少するでしょう。しかし、その社会における他の産業でも同時に生産性が上がっていれば、あらゆるものの価格が下がっています。安くなったものを消費して生活費が浮いた分、人々の消費は増え、人々は今まで消費していなかった新しいものでさえ消費するようにもなります。新しい物を作る新しい産業が生まれ、その産業が新しく労働力を求めます。新しい産業で労働力が不足していると、そこの中での賃金が上がります。高い賃金を求めて、農業など少ない労働力で済むようになった産業から、新しい産業に労働力が移ります。もしも、新しい産業で仕事を求める人が増えすぎると、この産業での賃金が下がり、人々は他のより賃金の高い産業に移って仕事を求めようとするのです。

もちろん新興企業にの中には期待したほど顧客がつかなくて倒産するところも出てきます。しかし、取引が自発的に行われる限り、自分を豊かにしないものを人々は購入しません。人々が望まないものの生産はそれを生産していた企業の倒産によって中止されます。つまり、「倒産」があることで、人々が望むものを人々の手の届く価格で生産する活動だけが生き残り、社会の生産性が確実に上がり続けるのです。倒産とは、生産性を上げない活動を「間引く」ことで社会の生産性が下がることを防ぐ歯止めなのです。

以上、人間が自由に労働力や労働の成果を交換できる社会では、社会全般に渡って生産性が上がるという過程を見ました。生産性とは単位労働時間当たり生産出来るものの量ですが、ものの価格は、交換を通じてものを得ようとする人の労働量で測られます。生産性が上がるということは、同じ労働量と交換して得られるものの量、つまり賃金が上昇するということです。つまり、自分が豊かになるために生産性を上げる工夫と努力を常に怠らないという人間の性質と、労働力や労働の成果を個々人の間で交換する自由が保障されているという二つの条件が満たされている限り、多少の上下の変動を経験しながらも、人間社会は生産性を上げて賃金を上げ続けるのです。


ところで、政府は景気を回復させ失業者を減らすことを目的として、経済政策を実施しています。その中に「中央銀行の低金利政策」や政府が税や国債の販売で得た資金を投資する「公共投資」があります。今回は、中央銀行の低金利政策が社会の生産性の向上を妨げていること、つまり賃金が上がるということを妨げていることを説明します。そして、シリーズ最終回の次回は、政府の公共投資政策の影響を検討します。


まず、法律によって業務内容を規定され、また首脳を政治家によって任命されている中央銀行は、法定通貨(法貨)である中央銀行券の発行量を調節することで、社会の金利を操作します。法定通貨とは、社会の構成員が商取引の際の使用を法律によって義務付けられている通貨(ある国に流通しているお金)のことです。人々は、商取引をするときに代金として差し出された法定通貨の受け取りを拒否することを法律で禁止されているのです。つまり、法定通貨の制度は人々の取引の自由を制限しているということです。

中央銀行は市中銀行と呼ばれる民間の銀行に通貨を貸し出し、市中銀行はその通貨を企業などに貸し出します。企業は、銀行から借り入れた通貨を生産設備を増やすなどの投資に使います。企業が投資を増やすということは、工場を建てたり、機械を買ったり、人を雇い入れたりすることですが、この過程で、工場を建てる人や機械を作る人もさらに雇われます。また雇われた人が生活に必要なものを購入するので、これらのものを生産販売している人も潤います。

中央銀行が景気を上昇させたい時、つまり多くの人が雇われるようにしたい時には、企業の投資を増やすことを目的に、市中銀行に貸し出す金の利率を下げます。そうすると、市中銀行はより多くの金を中央銀行から借りて、それまでよりも低い利率で企業に金を貸し出します。企業は低い利率で多くの金を借り入れるので、それまでよりも投資を増やします。投資を増やす企業に雇われる人の数が増えて、社会の失業が減るだろうというのが中央銀行の目論見です。


ところが、中央銀行が金利を下げたことで企業の設備投資が増えたとしても、実際には、この投資の増加分は社会の生産性の向上には結びつかずに無駄になることが多いのです。まずこの理由を説明します。


金利が下がるということは、借金をしてもそれが長期にわたって雪達磨式に膨らむ率が低いということです。従って、金利が下がれば、当然、下がる前の金利では投資の見返りが期待できなかった設備投資でも割が合うようになるだけでなく、それまで失敗のリスクが大きかったために見送られていた大規模で長期にわたる投資プロジェクトが魅力的になってきます。つまり、金利が下がることで、それまで手が出されていなかった失敗する危険性の高い大規模な長期プロジェクトへの投資が増えます。

金利の調整という役割の他に、中央銀行には、預金者が市中銀行に預金を引き出そうとして一気に殺到する「取り付け騒ぎ」が起こった時に、通貨を増刷して市中銀行を倒産から救う「最後の貸し手」という役割もあります。つまり、市中銀行は中央銀行によって倒産の危機から保護されています。しかし、自身の倒産の危険が減ることで、貸出先である投資プロジェクトの成功と失敗の可能性を見積もる銀行家の算段は甘くなります。危険なプロジェクトに投資をしても、うまくいけば自分の儲けになり、たとえ失敗したとしても中央銀行が救ってくれるなら、銀行家は当然のことながら、失敗する可能性は高いけれど成功した時の実入りの大きいプロジェクトを選ぶようになります。

また、銀行が倒産する危険があれば、銀行にとっては経営状態の健全さが預金者を引き付ける重要な要素です。しかし、倒産に危機から守られていれば預金者は銀行の経営状態に注意を払わなくなります。銀行にしてみれば危険な貸付をしても預金が集まらないという心配はなくなります。


また、銀行が倒産の危機から守られていると、銀行同士の間での金の貸し借りの関係が密接になり、経営が思わしくない銀行にも他の銀行が金を貸すようになります。つまり、銀行同士の相互依存が高まります。その結果、一つの銀行が倒産の危機に陥ると、その銀行に金を貸している多くの銀行も同時に経営危機に陥るという共倒れが生じます。

銀行が中央銀行によって倒産の危機から守られていない場合には、投資家や預金者は銀行の倒産によって自分の投資や預金を失わないように、金を幾つかの異なる銀行に分散し、一つの銀行の倒産によって有り金全部をなくす危険を減らすようにします。従って、銀行に倒産の危険がある場合は、投資家や預金者は社会の全ての銀行が相互に依存しているような状態を許しません。しかし、中央銀行によって市中銀行が倒産から守られている状態では、投資家や預金者は相互に深く依存している銀行に有り金を託すことに不安を感じなくなります。共倒れの危機に陥っても中央銀行が助けてくれると思うからです。

そして、銀行の相互依存が高まれば、一つの銀行の経営危機で銀行業全体が共倒れに陥る可能性が高くなるのですが、銀行の共倒れが起ることを避けたい中央銀行は、銀行を倒産から守る努力を強化します。

それに倒産に危険がなくなると、銀行は成功が確実だが実入りの小さい小さな投資プロジェクトを一つ一つ手間暇をかけて選択するよりも、多額の預金を集めて、実入りが大きい大きい投資を行おうとします。こういうことが出来るのは大きな銀行であり、収益の大きな銀行は小さな銀行との競争に勝ち、さらに大きくなります。また、倒産の際の社会的影響が大きい大銀行は、倒産の危機に瀕したときにも救済される公算が高いので、預金者にしても、有り金の全てを銀行預金にしたり、また一つの大銀行に有り金全部を預けるようになります。

要するに、中央銀行のおかげで、社会の中で数少ない大銀行が社会の貯蓄と中央銀行からの借入金を集約することが可能になり、その集約した資金を、中央銀行によって下げられた金利で大規模かつ長期にわたる投資プロジェクトに危険を顧みることなく投資するようになるのです。結果として、多額の資金を投入したにもかかわらず期待しただけの消費者の購買が得られずに、投資としては失敗に終わるプロジェクトが生まれてきます。これが、低金利政策によって促進された企業投資が、社会の生産性の向上に貢献せずに無駄になることが多い理由です。


つまり、中央銀行は景気を回復させて失業を減らす目論見で金利を下げたのですが、低い金利で貸し出された資金は、消費者が求めていないものを生産するための無駄な投資に使われたのです。この無駄を正すには、失敗した企業の早期倒産を促し、無駄に使われている生産設備や人材などの資本が人々が求めるものの生産へ転換されなければなりません。

しかし、投資プロジェクトが大きければ大きいほど、失敗した時の影響が大きくなります。プロジェクトだけでなく、下請けや孫請けの会社も倒産し多くの人が失業します。失業した人が失業前に必要なものを購入していた店も買い手が無くなって倒産します。それに、投資を回収できなくなった銀行が経営難に陥るのですが、銀行同士が相互依存している状態では、一つの銀行を倒産させると銀行業全体が危機に陥ってしまいます。そうなれば、それらの銀行と取り引きをしている多くの企業の経営に支障を来たします。その結果、社会の広い範囲で倒産と失業がさらに増えます。つまり、失敗であることが明らかになった巨大プロジェクトの倒産を許すと、景気が後退する可能性が出てくるのです。

消費者が求めていないものを作るための設備の建設と維持は出来るだけ早く停止する必要がありますが、倒産は失業という苦しみを伴います。この苦しみを先送りするために、中央銀行はさらに金利を下げて、成功の見込みが既に無くなった投資プロジェクトの延命を図ります。これは苦しみを先送りすることで将来の苦しみを増大させる「迎え酒政策」です。経営難に陥った企業は、銀行からさらに低金利になった融資を受けてとりあえず倒産を免れます。しかし、金利がさらに下げられたことで、それまで採算の見通しが立たなかった他の危険なプロジェクトにさらに投資がなされるようになります。その中には、やはり消費者の需要を獲得できない失敗プロジェクト候補が含まれています。その結果、さらに多くの資本が社会の生産性を上げることなく無駄になるのです。

この状態で大きな投資プロジェクトや大銀行が、天災などの要因が引き金になって破綻すると、その影響が社会全体に波及し、景気が急激かつ大幅に後退する恐慌が引き起こされる可能性があります。要するに、景気の後退を避けようとする低金利政策と中央銀行は、社会の生産性向上を妨げるだけでなく、大きな景気後退の原因でもあるのです。


繰り返しますが、中央銀行の低金利政策によって多くの資本が無駄な投資に使われた後には、生産性の向上が再開されるためには、これら多くの資本が消費者が望むものを作るために社会の中で再編成される必要があります。そのためには、生産設備や原材料、労働力などの資本が、現在の無駄な使用目的から解放される必要があります。

つまり、多くの企業が倒産し、多くの工場や工作機械が売りに出されて価格が下がります。くず鉄にしかならず永久に無駄になる投資もあるでしょう。また失業者が一時増加して、限られた数の職をめぐって失業者が争う結果、賃金が一旦下がることは避けられません。倒産と失業者が多い時に、財布の紐のかたくなった消費者が望むものをどうすれば安く生産できるかを考えるのは容易ではありません。しかし、資本の価格が下がっていると、つまりデフレーションが起っていると、新しく起業するのが比較的容易になります。多くの人がアイデアを出して投資家の賛同を得た上で企業を起こし、さらにそれらの企業の中で一部が生き残り、残りは倒産するという過程を通じて初めて消費者が望むものが消費者の望む価格で生産されるようになるのです。

顧客を掴むことに成功した企業は成長を続け雇用を増やします。失業者が減り始め、賃金の下降が停止します。職を得た人の消費で他の企業の収益も上がり、さらに雇用が増え賃金が上昇を始めます。これが景気の回復です。

景気の大幅な後退が起こる前に既に金利がゼロ近くまで下げられていると、中央銀行はこれ以上金利を下げることは出来ません。この場合、低金利政策は景気回復策としては無効となります。たとえ、まだ金利を下げることが可能であっても、低金利は単に社会全般に渡って投資を刺激し、成功失敗に関係なく投資事業を無差別に延命するだけで、生産性を上げる投資だけを選りすぐる機能はありません。消費者が望むものを望む価格で提供するという困難な仕事は、進取の気性と倒産を覚悟の上で起業する人のみが成し得ることです。中央銀行の低金利政策は、この困難な仕事の肩代わりをする「魔法の杖」にはなり得ません。


中央銀行の低金利政策は、景気の後退を食い止めることによって失業と賃金の下降を防ぐという建前のもとに実施されるのですが、上で検討したように、低金利政策こそが景気の大幅な後退の原因なのです。景気が落ちこんだ後でさらに実施される低金利政策は、社会の資本が無駄に使われることを助長し、社会が生産性を高めるのを妨げる「迎え酒」です。法定通貨の制度は取引の自由を制限することで、中央銀行が金利を操作することを可能にしています。低金利政策は、経営難に陥った企業や投資プロジェクトを延命することで、社会の生産性が下がるのを防ぐ「倒産という歯止め」を取り除いているのです。

シリーズ最終回の次回は公共投資を扱います。


以前のコラムも合わせてご覧下さい。
「貯蓄・銀行・中央銀行 (1) - 貯蓄と経済成長」
「貯蓄・銀行・中央銀行 (2) - 銀行の役割」
「貯蓄・銀行・中央銀行 (3) - 貨幣水増しの初期症状」
「貯蓄・銀行・中央銀行 (4) - 貨幣水増しの中期症状」
「貯蓄・銀行・中央銀行 (5) - 貨幣水増しの末期症状」
「貯蓄・銀行・中央銀行 (6) - 有害な中央銀行がなぜ存在・存続するのか?」
「GDPの誤謬 (1): GDPは何を何のために測っているのか?」
「GDPの誤謬 (2): データ崇拝主義」



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