古典的自由主義者のささやき

経済の問題は、一見複雑で難しそうに見えますが、このブログでは、経済学の予備知識を用いずに、日常の身の回りの体験から出発して経済のからくりを理解することを目指します。


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前回のコラムで、経済の視点からは、「市場の失敗」が起っていることが政府の市場への介入の正当化に使われること、そして、市場の失敗とは自由な物やサービスの交換に任せておけば経済効率性が達成できない状態であることを説明しました。

市場の失敗があるから政府が市場に介入しなければならないという主張は、市場は駄目だから何か他の生産と分配の制度に置き換えようという主張ではありません。市場の失敗論は、経済効率性は市場によってこそ達成出来るということ、つまり人々の自由な交換を通じてこそ、社会の構成員の一人一人が限られた資源の制約の中で一番満足出来る形で資源の配分や生産物の分配が行われるという理解を前提にしています。この前提を受け入れた上で、ただ食品の安全性など特定の物やサービスの市場に関しては、経済効率性の達成が妨げられているので、政府の介入によって「市場を矯正」しようというのが市場の失敗論です。


では、食品の安全性の市場はどういう点で経済効率性を達成することに失敗しているのでしょうか。食品の安全性に関する市場の失敗論を要約すると、「消費者が購入する食品の安全性に関する完全な情報が提供されていないので、たとえより安全な食品を購入したがっている消費者でも、高い金を払ってまで安全性がはっきり分からないものを購入しようとはしない。つまり安全性に金を払いたい消費者の需要が不完全な情報のために満たされていない」というものです。今回は、この「不完全情報」による食品安全市場の失敗論を吟味します。

まず、商品の情報が不完全であれば市場の失敗が起るのでしょうか。架空の例を使って考えてみましょう。

今仮に、林檎や蜜柑や柿や桃などの果物は必ず不透明な袋に入れて売らなければらないという変な規則のある社会があったとします。こんな社会では、消費者は林檎を買おうにも袋の中の果物が林檎かどうか分かりません。今の季節は林檎が珍しく、多少高値を払っても林檎を購入したがっている消費者がいたとしても、林檎だと思って買った果物が実は林檎でない可能性がある以上、林檎を買い控える消費者が出てきます。つまり、自分の収入の一部を自発的に林檎の消費に回そうと思っている消費者の需要が袋の中身が何であるかの情報が欠如しているがために満たされないのです。結果として、消費者は林檎に使ったであろう金を蜜柑だとか衣類だとか貯金など何か他の目的に割り当てます。

果物は不透明な袋に入れて売らねばならないという規則が常に存在しているこの社会では売れる林檎の量が抑えられているので、そういう規則が存在しない場合に較べて林檎の生産のために使われる資源の量が少なくなっています。この奇妙な規則がなければ、土地、労働力、肥料、燃料などの資源が今よりも多く林檎の生産に使われていたはずです。

要するに、変な規則による情報不完全のために、消費者が自分の収入を林檎の購入も含めた様々な目的に自由に割り振ることが妨げられ、また社会の中で様々な資源の配分がゆがめられることになります。この状態では経済効率性が達成されず、市場の失敗が起っていることになります。


では、食品の安全性にも同じ議論が当てはまるのでしょうか。スーパーマーケットに並ぶ食品の安全性は、その外見を見ただけではなかなか分かりません。見た目によって安全性が判断しにくいという点においては食品の安全性は不透明な袋に入った林檎に似ています。従って、食品の安全性に関して市場の失敗が起っているという議論は一応もっともに聞こえます。ところが、市場における食品の安全性情報の提供が不完全であるがために市場の失敗が起っているという議論には幾つかの根本的な問題があります。もっともらしい議論を提示しただけでは市場の失敗の証明にはならず、政府の市場への介入を正当化出来ません。


袋入りでしか果物を売ってはならない社会の例では、この変な規則を撤廃するだけで、つまりタダで、市場の失敗を取り除くことができます。ところが、食品の安全性に関する情報の供給を増やすのはタダでは出来ません。安全性に関する情報の中でも、食品の色や匂いなどは今でも殆んどタダで提供されています。しかし、それ以上に商品の安全性に関するラベルを増やすとなると余分な費用が必要となります。商品を包装して販売する業者は、ラベルが示す商品の安全性を裏付ける情報を中間業者や加工業者を通じて生産地まで遡って収集しなければなりません。もちろんこれはタダでは出来ません。安全性に関する情報は「完全」にしようとすればするほど費用が嵩むという性質を持っています。

つまり、食品の安全性を示すラベルなどは、供給するために費用がかかる「情報商品」なのです。情報商品に限らず、費用がかかる商品を供給するためには、社会の中で今生産・消費されている何か他の物やサービスを犠牲にする必要があります。利用できる資源に限りがある以上、情報商品のように費用が嵩む商品は「完全」な量供給されることはありません。商品が「完全」に供給されている状態のユートピアを想定して、現在の市場を断罪する基準とするのは適切ではありません。つまり、安全性にかかわる情報が「完全に」消費者に供給されていないことをもって市場の失敗が起っているとはいうのは根本的に間違っています。


近年バーコードなどの情報技術の進歩によって、安全性など食品についての様々な情報が生産地から消費地まで伝達されるようになりました。流通網を通じての情報伝達が容易になったと同時に、消費者の食品の安全性に対する需要が高まるにつれて、これまで提供されていなかった様々な情報がラベルの形で提供されるようになりました。食品の安全にかかわる情報も含めて、全ての物やサービスは、時代の技術力の制約の中で消費者の需要に合わせて提供されています。そして、資源の配分と生産物の分配が人々が一番満足できる形で行われていれば、情報供給に必要な技術開発にも人々の需要を反映するように資源が割り当てられます。食品の安全性に関する情報を消費者が強く求めるなら、その需要を満たすように特定の技術が進歩してゆくのです。市場に失敗が無いにもかかわらず、政府が市場に介入することは、消費者が求める物やサービスの生産のための資源の配分を滞らせ、消費者が強く求める物やサービスの供給を可能にする将来の技術進歩を妨げます。


食品製造業者はどんな材料を仕入れて、どういう方法で自分の商品を加工しているかを知っているが、消費者は店頭に並べられた食品を見て購入するしかないので、危険な食品を掴まされる可能性を恐れて食品全体を買い控えることになる、という議論が出るかもしれません。

しかし、外見だけで安全性が分かりにくいというのは食品という商品の性質であって、食品製造業者のせいではありません。むしろ、業者にしてみれば安全な食品を売ってこそ顧客を引き付けて営業成績を伸ばすことが出来るので、より工夫を凝らして自分の商品が安全であることを顧客に訴えようとします。上の例に挙げた果物を不透明な袋に入れて売ることが義務付けれている社会でも、売り手は直ぐに袋に果物の名前を書いて売り始めるに違いありません。それでも信用しない客に対しては、表示に偽りがあれば直ちに交換すると約束する店も出てくるでしょう。

そもそも、買い手が存在するのに買い手の需要を満たすような商品が売られていない状態は、規制を導入しようとしている人たちにとっては市場の失敗のように見えるかもしれませんが、商売人にとってはそれは絶好の儲けの機会です。新しい商品が登場し、消費者の需要が満たされてゆきます。市場は静止状態にあるのではなくいつも変化しているのです。


商品経済が発達すると、人々は食物を自分で生産するのを止めて遠くで作られた安い食料を購入するようになります。しかし、これには危険が伴います。村の顔見知りの八百屋なら腐った林檎を直ぐに返しに行けます。返品を受け付けないようなら、村中で八百屋の信用が落ち商売が出来なくなります。それに較べて、価格は低くても誰が何処で作ったのかわからない物を食べるのは不安です。村が大きな経済圏に組み込まれた当初は、何処からともなく現われた商人に品質の劣る商品を掴まされたこともあったでしょう。

しかし、村々が大きな経済圏に組み込まれた時代から、顔見知りではない相手から誰が作ったか分からない物を購入する際のリスクを軽減するような仕組みを市場は発達させてきました。ブランドがその例です。今我々の社会では様々な商品に様々なブランドがありますが、これらのブランドは全て多くの消費者の取捨選択の結果生まれてきたものです。

安全な食品を提供する新技術を導入しても、直ぐ他の企業に真似されるから、だれも新技術の開発に金を使わないという意見があります。しかし、技術は直ぐには真似出来ません。一旦確立されたブランドは直ぐには消えないので、他の企業が同じ技術を導入しても真っ先に新技術を導入してブランド名を確立した企業は長い間技術投資の見返りを受けることが出来ます。


以上のように、安全性に関する情報が不完全だから市場が失敗しているという議論は、一見もっともに見えるだけで、市場の失敗が起っている説明としては不十分です。市場では技術の制約のなかで、消費者の需要に合わせて食品の販売業者が食品の安全性を高めています。このように消費者の需要に合わせて安全性を向上し続けている市場が失敗しているようには見えません。曲がりなりにも時代の技術の制約のなかで経済効率性は達成されているように見えます。

前回のコラムで説明したように、経済効率性は自由な市場によってこそ達成されるという前提が存在します。この前提があるにもかかわらず政府が市場への介入を主張するためには、介入しようとする市場で市場の失敗が起っていることを証明する必要があります。立証の責任は、市場への介入を主張する側に存在するのです。ところが、上で説明したように、不完全情報による食品安全市場の失敗論はもっともらしい解釈に過ぎず、証明にはなっていません。

では、食品の安全性市場で市場の失敗が起っているという証明はあるのでしょうか。費用便益分析という手法を用いて食品の安全性市場における市場の失敗を証明しようという試みがなされています。次回は、食品の安全に関する費用便益分析を取り上げます。


以前のコラムもご覧下さい。
「大企業は悪か」



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