『それでは、テキストを開けてください。』
真壁の声は教室の一番後ろでも良く聞こえた。
今日は石田と濱名の二人が、真壁のセミナーを聞きに来ている。
【美容師のための数値分析力向上講座】
“美容師のための”と付いているが、誰も好き好んでこんな勉強をしに来るのではない。
実際、午前中に開催されていたアシスタントのセミナーはたくさんの生徒で賑わっていたが、このセミナーの参加者は数えるほどしか来ていない。
そんな中でも石田と濱名は後ろの席に座った。
授業が始まる直前に、濱名が石田に耳打ちした。
『店長、こんな一番後ろの席に座っていたら、後で坂上先生に叱られますよ・・・』
『そんなこと言ったって、他のセミナーならまだしも、数字のセミナーなんて一番前に座っていたら、もし当てられても私たち何も答えられないじゃない』
『確かにそうですね』
授業が始まり、真壁が二人の存在に気付いた。
『あ、トラングルのお二人もお越しいただけましたね。やけに後ろに座っているようですが・・・』
二人は苦笑いしながら会釈をした。
真壁も苦笑いしながら答えた。
『きっと、一番前に来ても答えられないのではないかと心配だったのでしょうが、少なくともこの講習に来る方々ですから、そう大差ないと考えるべきでしょうね・・・。』
『それでは、さっそく授業を始めます。
皆さんは、なぜこのセミナーを受けようと思いましたか?
一番後ろの、あなた。』
明らかに石田の方に目線を合わせながら、真壁が尋ねた。
『ええと・・・、数字に強くなりたかったからです・・・。』
真壁は、なるほどと呟きながら続けた。
『一番後ろに座っているので、答えられそうな質問を先にしてみました。それではその横の・・・、濱名さんは?』
『私も・・・数字に強くなりたかったからです。』
『なぜ?』
なぜ数字に強くなりたいのか?と聞かれて、濱名は答えに詰まった。
横にいる石田に救いの目を向けているが、当の石田も“分からない”と言った表情で目を見合わせるしかなかった。
そんな反応を予測していたかのように、真壁は続けた。
『テキストの1ページ目を見てください。』
『恐らく本日お越しの方々は、幹部の方か経営者の方だと思いますが、美容師さんはよく“数字が弱いので強くなりたい”とおっしゃいます。
しかし、多くの美容師さんがなぜ数字に強くなりたいのか?つまり、数字に強くなるとどうなるのか?を分かっておられません。』
少しテキストに目を向けた後に、真壁は続けた。
『例えばこんな事は無いですか?店長は再来率を大事にしたいと思っているのに、チーフは新規集客に力を入れようと思っている。』
思わず二人は目を見合わせて、少し微笑んだ。
トラングルの3号店を任されている店長の石田とチーフの濱名だが、オープンから1年経つあたりから少し意見が合わない事が増え始めた。
『そういったケースの場合、“どの段階で意見が衝突するのか?”を検証する必要性があるのです。
よく見かけるのは、この右側にあるように、店長は緊急ミーティングを開こうと思っているのに、チーフはそんな事より今日はさっさと帰宅しようと思っている。』
石田は心の中で呟いた。
(確かに。最近の私が一番感じるのは危機感の差だわ。濱名と話をしても、緊張感と言うか、危機感が足りないんじゃないかと思う事が多くて・・・。)
『物事には全て、原因と結果と言うものがあります。これを具体的にサロンワークで考えると、事実と行動とも言いかえられます。
原因があるから結果があるように、事実があるから行動があります。
但し、事実と行動の間には必ず“解釈”“仮説”“対策”の三つのプロセスがあるのです。』
濱名はテキストを順番に指でなぞりながら、しきりに頷いている。
真壁は続けた。
『いきなり行動についての論議をしても無駄です。
明日からポスティングした方が良いとか、昨日のロープレはどうだったとか・・・。
その前に、必ず“事実・解釈・仮説・対策”があって、それらを共有した上で・・・この共有を合意形成と言うのですが・・・、共有したうえで初めて行動に問題があったのか無かったのかが検証できるのです。
ここまでで、質問のある方おられますか?』
誰も手を挙げる事は無い。
無いはずなのに・・・
『はい、石田さん。』
『え?わ、わたし、手を挙げていませんけど・・・?』
『いや、質問がある目でした。』
横で濱名がニヤニヤしている。
『じゃ、じゃぁ・・・。そのお話と、数字が強ければ良いというのと、どう関係があるんですか・・・?』
『それでは質問です。私は、痩せた方が良いでしょうか?太った方が良いでしょうか?』
石田は何のことか分からないと言った表情でいたが、言葉を選びながら答えた。
『え~と・・・もう少しお痩せになられた方がよろしいかと・・・』
『デブは嫌いですか?』
『いえ・・・、嫌いと言うわけでは・・・』
『じゃぁ、デブ専という事で。
と言うように、デブ専の方にとっての私の体重、仮に、仮にですよ、仮に100キロだとすればちょうど良いという事になります。』
その時、受講者全員が真壁の体重が100キロある事を知った。
『つまり、事実としての100キロ、仮にですよ。その100キロと言う事実は、判断基準が“デブ専”ならば、ちょうど良いという解釈になります。
しかし、私がもし幕内力士なら・・・幕内力士の平均体重は160キロくらいだそうですから、これでは痩せすぎという解釈になりますね。
そして、もし私に健康維持が必要であれば、BMIなどの健康指標を観なければなりませんが、私の身長が185cmですから、理想の体重である75kgから考えると太り過ぎという事になります。』
石田は少し不思議そうな顔をしていたが、そのまま真壁が続けた。
『という事は、これらの事から“行動をする為には事実・解釈・仮説・対策を確認する必要があるという事、その事実を知るための客観的な指標として数字があるという事”と考えられるわけです。
つまり、数字が強くなるという事は、行動を変化させるための対策を講じる際の判断が速く正確になるという事ですね』
一息つきながら真壁が机上を整理し始めた。
『それでは少し休憩に入りますが、何かご質問はありますか?』
石田が恐る恐る手を挙げた。
『あの~・・・』
『石田さん。何でしょう?』
『あの~・・・。真壁さんの身長が185cmもあるようには見えないのですが・・・』
『それでは10分間の休憩に入ります。ではまた後程』
2月開講予定の『数値分析力向上講座』です
お待ちしております