1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争終戦。 御前会議の御意(対話外交による和平維持)に反した開戦にも関わらず、 昭和天皇は終戦間もない同年9月27日、通訳1名だけを伴われ連合国軍最 高司令官総司令部(GHQ)を訪れられ、最高司令官ダグラス・マッカーサー へ「自身の運命については如何様のものであろうとも私が直接全責任を負 います」と申し出られ、後日農林大臣(当時)を通じて「国民の衣食住の点 のみにご高配を賜りますよう」と皇室の御物(財産)の目録を渡されました。 マッカーサーは、「諸事実に照らしても明らかに天皇に帰すべきではない責 任を引受けようとする勇気に満ちた態度は私の骨の髄までも揺り動かした」 「自らの命と引き換えに自国民を救おうとした君主が世界の歴史上いただろ うか、日本の天皇は命乞いをしなかった唯一の君主」「私は初めて神の如き 帝王を見た」等と、国民を第一に案じられる昭和天皇の御心に感動。 「断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせない」と、以後アメ リカ本国から食糧を調達し続け、日本は戦後の食糧危機を脱しました。 昭和天皇の強い御意により、1946年(昭和21年)から8年半、約33,000㎞に 及ぶ全国御巡幸を敢行され、各地で奉迎する国民一人一人に生活・食糧・ 居住などの状態を尋ねられ、戦地、戦中の辛苦、家族などの戦死の話に涙 を流されました。 人々は、政府・軍部の架空思想の普及により「神」とされていた天皇陛下の 慈愛深い御心と御姿に触れ、陛下が苦しみ、悲しまれていたことを知ました。 自分たちの苦しみ、悲しみを陛下が共にして頂いたと心から感じた人々の 「陛下とともに頑張ろう」 という気持ちが原動力となり、めざましい戦後復興 を遂げました。 その後も国民の生活を第一に案じ続けられ、「国民に住居が行き渡ってい ない」、「国民を優先するように」と皇居御所の建て直し・食糧の優先配給を 断り続けられ、国民の生活水準が戦前をはるかに上回った1961年(昭和36 年)まで防空壕生活を過ごされました。 今上陛下(きんじょうへいか)は、戦災の苦しみ、悲しみを共にされながら 国民に寄り添われた昭和天皇の御心を受け継がれ、諸外国との恒久和平 を願われながら国民の生活を案じて下さり、御皇室活動・警護などに伴う国 民生活への影響までも案じられた時代に即した御皇室を築かれています。 多忙の御公務とともに日本民族の最高位の祭司として古代より御歴代天皇 が執り行われてこられた祭祀(親祭)を大切に継承され、天地の神々へ国家 国民の繁栄・安泰をお祈り頂いています。 |