取り調べの可視化に関する4月5日の院内集会に参加して。まず彼ら主催団体の巧みさ、に感じ入った。 | 社会の窓

社会の窓

ブログの説明を入力します。
思いついたこと、よく分からなくてトモダチに聞きたいこと、日々の近況など書き留めておいています。

取り調べの可視化に関する4月5日の院内集会に参加して。まず彼ら主催団体の巧みさ、に感じ入った。まず取り調べの可視化という、それくらいはいいだろうと誰しもが感じる案件からはいる。つまりは攻め易いところから攻めるという戦略性。兵法の基本ですよね。

 そしてゲストスピーカーの選び方、オーストラリアとアメリカ合衆国の警察官僚という設定。これがデンマークやスウェーデンなどなどだったら、国名を聞いただけでウヨクやホシュという人びとは忌避して極端な特殊例として切って捨てるであろうが。アメリカやオーストラリアという、人権に関しては、やや立ち遅れた野蛮な国家というイメージがある国々で、日本人も日本が国際社会において人権問題で批判されているのは知っていても、アメリカなどまだひどいではないか、日本はアメリカよりはまし。だから日本はまだ大丈夫だ。という意識はもっている。その上で、アメリカでさえすでに、といわれると言葉を失うだろう。

このテーマの選び方、内容、実にうまい巧みだ、と感嘆せざるを得ない。

アメリカやオーストラリアでは、警察の上層部が積極的に可視化に取り組んだと報告されている。これは可視化の導入を推進したい集会であるから、可視化の利点が強調されているが。警察上層部にとって、特に警察の捜査の独立性がある場合。可視化は警察上層部にとっては、職員の働きぶりの監視にもなりトラブルが未然に防げる。また検察と弁護側双方に対して、警察は裁判の行方を決めるカードを握ることになる。可視化さえすれば、取調べ情報が正確になるとは限らない。たとえば二回に分けて取調べがあったとする、初めの取調べは記録に残さず、あとの取調べは記録に残す。そういった情報操作は可視化による録音やビデオ記録がなされても十分に可能である。それらの記録のうち、あるものは弁護側、検察側にとって、一方には必要であったり、また一方にはありがたくなかったりするであろう。その記録のどの部分を提出するかを警察が権限を握っているとすれば、警察は双方に対してゲームの立位置としては非常に優位である。

会場には国会の代議士も出席していたが、法務大臣などは可視化に積極的であるという。確かに法務大臣は一連のてつづきを監督する立場であるから。取り調べ現場の可視化は監督者である法務大臣にとっても可視化である。法務大臣が可視化に賛成するというのはよく理解できる。

ほか政治家代議士のスピーチも多くあったが、日本では、この可視化は弁護側から強く求められており、取調べ現場の可視化に強く反対しているのは、検察と警察の側である。「取り調べの可視化を実現して検察の権益を切り崩す」という見方が大勢であった。これは日本では警察は検察庁からあまり独立しておらず、検察の指導の下、すなわち検察のために被疑者の有罪を立証するための証拠をあつめる実行部隊という性格を帯びているためである。ある意味日本の警察は、自己の利益を追求することなく、滅私奉公のまじめな組織である。刑事事件の捜査、立件、起訴、判決にかかわるのは、検察と、警察と、弁護があるのではなく。検察、警察側と弁護側に分かれる。あるいは(裁判所、検察、警察) 対(弁護側)ともみてとれる極端な構図がある。弁護士側はそのほとんどが個人営業の零細事業所であるため。国家予算から人件費から必要経費までまかなわれている巨大組織と、民間の個人経営零細事業所のせめぎあいになっているようにもみてとれる。刑事裁判において弁護士は不利を感じているらしい。

アムネスティやヒューマン・ライツ・ヲッチなどの人権擁護団体のスタッフたちの、今後の活動の組みたてかた、計画やもくろみというものも見て取ることができた。一側面にしかないかもしれないが。セミナーを企画した各団体のスタッフの多くは、セミナーのゲストスピーカーの講話のあいだは、居眠りをはじめた。これは準備までそれこそ不眠不休の準備をしてきたのかもしれないし、ゲストスピーカーの話はすでにお勉強済みで情報としてはすでに知っていることの繰り返ししにすぎなかったのかもしれない。なにより、ゲストスピーカーの講話は英語を持ってなされ、季節は桜の満開のころ、最も眠くなる季節と時間帯で、年間で最も心地よい午睡できる貴重な数時間である。若いスタッフの方にはとやかく言うものではない。ところが一時間のセミナーのなか 15分以上は会場に来た大臣や国会議員たち数人のスピーチにあてられた。時間配分として本論より挨拶がすいぶんおおい。そして居眠りをしていたスタッフたちもこの大臣や議員のスピーチは、起きだして熱心にメモを取るのである。この現象をどうとらえるかというと。セミナーの主催者である各団体は、セミナーを通じて周知を図ることや、課題の内容をさらに掘り下げ完璧にちかづけることにはあまり関心がなく。それよりも大臣や議員、官僚といった人びとが何を発言するか、彼らの意図を読みたがっているということである。

人権の各団体のスタッフが、大臣や議員、官僚たちの意図を読むことにこれほどのウエイトを置いているということからはいくつかの憶測ができる。

日本における取調べの可視化の導入は、すでにかなり最終段階にちかずいており、おそいらく大勢は固まりつつある。可視化は段階的であっても近年中に導入されるであろう。その日本における大体の案はすでにできており、あとはタイミングを計りアプローチの段階にきている。だれに、いつ、どのように要求しもしくは力をかして実現させるかを検討している。

つまりこの課題は、絵にかいた餅ではなく餅はすでにぺったんぺったん作られれており。これをいつだれがどのようにして床の間に上げるかということなのである。さらに床の間にもっていきたい人間はすでに何人もいる。すくなくとも彼らはそうイメージしている。

取り調べの可視化は、おそらく導入される運びになるだろう。これで人権は一安心となるかというと、そうではないだろうとまた推測できる。

福山克也