「17東大日本史本試Ⅰを考える①」の続きです。

問題は「東大教室(17東大日本史本試Ⅰ 問題)」をご覧ください。

 

第1問 古代(総合) 古代国家と東北

 

解説

 

付加的説明 文章(2)(4)

 

(2)

「律令国家が東北支配の諸政策を進める中、東国は……農民の東北への移住などで大きな影響を受け続けた。他の諸国にも……帰順した蝦夷の移住受入れなどが課され……」とある。

 

柵戸(さくこ)と呼ばれる開拓民のこと。

辺境経営のために設けられた各地の城柵の防衛を兼ねて移住させられた

 

一方、は、東北地方の蝦夷のうち律令国家に征服されて各地に集団的に配置された俘囚(ふしゅう)をさす。

彼らの大半は、定住生活を営む農業民ではなかった。

日常的に乗馬や騎射(→文章(4)「優秀な馬といった東北地方の物産」)に慣れ親しんできた蝦夷独自の生活様式は、のちに武士を生みだす重要な起源の1つになったと考えられている。

 

(3)

「……8世紀後期から9世紀初期の30数年間、政府と蝦夷勢力との武力衝突が相次いだ。……桓武天皇は……蝦夷の軍事的征討の停止に政策を転じた」。

 

は、伊治呰麻呂(いじのあざまろ)・阿弖流為(あてるい)などが登場する三十八年戦争(774~811)のことで、は、軍事(対蝦夷戦争)と造作(平安京造営事業)の可否を論じた「天下徳政相論」(徳政論争、805)を経て、二大事業の中止が宣言された事態をさす。

この決断の最大の理由は、文章(3)にあるとおり、国力が「限界に達した」からだった。

 

(4)

「東北地方の物産」(金・海産物・馬)に対する貴族の関心の高さと、そうした「物産」が「海上交通」をも利用して運ばれたと判断できる文章になっている。

 

蝦夷との私的な交易は奈良時代に早くも禁制がだされるほど盛んで、それは、三十八年戦争中にあっても衰えをみせなかった。

律令政府が三十八年戦争を遂行した目的の1つは馬の交易を掌握することにあったと考えられている。

 

また「海上交通」の点では、たとえば伊勢が中央と東北を結ぶ遠距離交易の中継地だったことが明らかになっている。

 

「17東大日本史本試Ⅰを考える③」に続く。