問題は「東大教室(17東大日本史本試Ⅰ 問題)」をご覧ください。

 

第1問 古代(総合) 古代国家と東北

 

解説

 

「古代国家と東北」をテーマにした問題。

 

前提として、律令国家が形成した「東夷の小帝国」観(小中華帝国意識)を確認しておきたい。

それは、天皇の統治のおよぶ範囲を「化内」(けない)、その外部を「化外」(けがい)(天皇の教化のおよばない領域)とみなし、そのうえで「化外」を、「隣国」=唐、「諸蕃」=新羅など朝鮮諸国、「夷狄」(いてき)=蝦夷・隼人という3層に区分して序列化したものだった。

 

この点については、2003年度東大日本史・第1問「8世紀の国際関係」が参考になる。

 

付加的説明 文章(1)

 

次に、文章(1)(4)について、いくつか補足的な説明を加えておく。

 

(1)

「律令国家による」東北地方への「進出」過程が簡潔にまとめられている。

各地の城柵(じょうさく)については、必ず地図で確認しておいてほしい。

 

文章(3)にもあるとおり、それはしばしば軍事衝突をもたらした。

律令国家は、大規模な軍事動員の際、白村江での敗戦後に唐・新羅との大規模な戦闘を想定して組織された軍団兵士制(軍団制)を機能させて圧倒的な兵力で前進を試みた。

 

これに対して、蝦夷側は地の利を生かしたゲリラ戦(戦闘継続能力の低さが弱点)で対抗し、機動性に欠ける律令国家の軍隊をしばしば苦しめた。

それでも、軍団兵士制に機動力をもたせ、集団戦闘とは異なる戦術を採用しようというような政府の動きはみられなかった。

 

その最大の要因は、「東アジアの国際関係の変動」にあったと考えられている。

たとえば、藤原仲麻呂政権下で立案された新羅征討計画(759年から準備開始,764年に中止)は、軍団兵士40,700人を動員する本格的なものだった。

 

軍事面で西海道をもっとも重視していた律令国家(→2000年度東大日本史・第1問「律令制下における駅制」参照)にとって、北方での蝦夷との衝突は軍隊のもつ基本的性格の再検討を迫るほど衝撃的なものではなく、そこでは、あくまでも物量で押し切る作戦が採用された(→文章(2)「度重なる軍事動員」「大量の武具製作」)。

 

「17東大日本史本試Ⅰを考える②」に続く。