*問題は、「200字論述新研究44(問題17・18)」で確認してください。
問題17 解説➊
■ヤマト政権の成立■
3世紀後半になると、西日本各地に巨大な古墳(前方後円墳が中心)が出現する。
各地の首長たちは共通の墓制で結ばれつつあった。
出現期におけるもっとも大規模な前方後円墳は、大和(奈良県)に造営されている箸墓古墳(はしはかこふん)になる。
この時期に、近畿地方を中心とする広域の政治連合=ヤマト政権が形成されたと考えられる。
【中国情勢】
ヤマト政権が成立したころの中国は、南北分裂時代(五胡十六国時代・南北朝時代)を迎え、混乱がつづいた。
このため、4世紀を含む前後約150年のあいだ、中国の歴史書には倭(ヤマト政権)に関する記述がない。
また、周辺諸民族に対する中国の支配力が弱まり、東アジアの諸地域は次々に国家形成へと進んだ。
【朝鮮半島情勢】
中国東北部からおこった高句麗が朝鮮半島北部に領土を広げ、313年には楽浪郡(紀元前108年に前漢の武帝が設置)を滅ぼした。
一方、半島南部では馬韓・弁韓・辰韓というそれぞれ小国の連合が形成されていたが、4世紀には馬韓から百済が、辰韓から新羅が生まれた。
高句麗の好太王(広開土王)碑文には、「4世紀の終わり(391年以降)に倭と高句麗が交戦した」という記録が残されている。
高句麗は南下政策をとり、倭(ヤマト政権)は半島南部の鉄資源を欲したため、両者は、新羅・百済をはさんで軍事的に衝突することになったと考えられている。
【4~5世紀の東アジア】
*続きの解説は、「200字論述新研究46(問題17を考える➋)」をご覧ください。