問題は、「200字論述新研究37(問題15・16)」で確認してください。

解説は、「200字論述新研究38(問題15を考える➊)」をご覧ください。

解説は、「200字論述新研究39(問題15を考える➋)」をご覧ください。

 

問題15 解説

 

前期の商品流通構造(大坂および畿内)

 

最後に、大坂について。

 

「天下の台所」と称された大坂は、そもそも都市自体が高度な手工業品生産力を有し、さらに京都・堺・奈良などを含む畿内(先進的な農業地帯・高度な手工業品生産地帯)を直接の後背地にすることができた。

 

戦国期の大坂

16世紀になって浄土真宗の本山がおかれた大坂は、石山本願寺と称された(寺内町)。

 

商工業者などの門徒が多数群集し、当時来日していた宣教師のガスパル=ヴィレラが石山本願寺のことを「日本の富の大部分は、この坊主の所有なり」(『耶蘇会士日本通信』)と形容するほど発展したが、1570年からの11年におよぶ織田信長との石山戦争により本願寺勢力は退去を余儀なくされた。

 

その後、1583年から羽柴(豊臣)秀吉によって大坂城と城下町が建設されることになる。

 

大坂と河川交通路(淀川水運)で直結していた京都は、古代以来の政治都市・宗教都市だが、その経済的な重要性も見落としてはならない。

 

白糸(中国産輸入生糸)の最大の消費地である西陣は、17世紀後半には機業(きぎょう)布を織る事業のこと)関係の人口が1万人をこえ、1705年には機屋(はたや)が2千軒に達している。

さらに、武具、金・銀・銅などの精錬と加工、高級美術品といった各種の手工業品生産の点でも、京都は圧倒的優位を占めていた。

 

17世紀前半に俳人の松江重頼(しげより)がまとめた『毛吹草(けふきぐさ)』(1645年刊)という書物には、1800種をこえる全国の特産物が記載されているが、こうした特産物のおよそ40%が京都・奈良・大坂・堺を含む畿内のものだった。

しかもその大部分は絹織物・武具・工芸製品で、手工業品生産における畿内の地位は圧倒的だったのである。

 

加えて、河村瑞賢による西廻り海運ルートの整備(1672)によって、従来から瀬戸内海航路で結ばれた西国だけでなく、北陸地方など日本海沿岸からの膨大な物資も下関を経由して大坂に流入してくるようになった。

 

こうして、後背地にもともと恵まれ、水上交通路の結節点に位置した大坂は、江戸時代前期に全国の物資が集散する中央市場(物資の一大集散地)として圧倒的地位を占めることになった。

 

問題15 解答

大坂は、商品作物栽培などの点で先進的で生産力も高い畿内農村地帯を後背地とし、また古代以来の政治・経済・文化の中心地で、高度な手工業品を生産しうる京都とも河川交通路で直結していた。さらに、瀬戸内海航路により西国と結ばれていた大坂は、西廻り海運など全国的な海上交通網の整備にともなって諸国の物資が集散する中央市場としての機能を強化し、巨大な消費都市である江戸にも南海路により大量の物資供給が可能になった。

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