世の中人間が一人で生きていけないのは当たり前のことですが、その場合何が大事でしょうか。コミュニケーションではないでしょうか。コミュニケーションとは人と人がつながること。元々生き物はその両親がつながって出てきたものですが、生き物にとってつながりとは切っても切れないものです。コミュニケーションとは、人間が生きていくのに絶対に欠くことのできない空気、水、食べ物などのレベルを除けばその次位にくる大事なものではないでしょうか。ロビンソン クルーソーとかのお話しならまた別ですが、一人っきりで生きている人間は普通いません。つまり誰でも必ず誰かとお話しや電話、お手紙、メールなどでコミュニケーションをします。障害があってお話ができない人も何かの方法でコミュニケーションをしています。人間だけではなくて動物もします。一部の学者さんの間では植物もするといわれています。つまりそれ程大事なコミュニケーションも考え方の一つと考えて最後に取り上げてみたいと思います。

コミュニケーションで問題となるのは意思の疎通の質の高さではないでしょうか。英語などの外国語での会話に限らず、同じ日本人同士の間での日本語でのやりとりでも世代や育った環境、家庭、教育、経験や体験、本人の好みや興味、趣味などの違いがあるので、一人の人間が思ったことを別の相手に伝えてそれを完璧に分かってもらうというのは実は至難の技です。まずは情報の発信者がその思いを本当に100% 正しく表現できたかどうかも分からないことから始まり、仮に表現(送信)が100% であったとしても今度は相手がそれを聞き間違い、読み間違いなどなく100% 正しく受信してくれたかどうか分かりませんし、もし正しく受信してもらえても今度はそれを思った通りに理解してくれたかどうか分かりません。言った、言わない、聞いた、聞かないのトラブルは世の常です。 

だから誤解というものが多発するのでしょうが、それを埋め合わせるにはそれだけ多く話し合うしかありません。”話せば分かる”とはよくいったものです。そこで忘れてならないのは、人間には誰にでも”言いたい欲”があるという点です。そしてその”言いたい欲”がスムーズなコミュニケーションを妨げる時があります。ある二人の間で話されている内容を良く聞いてみると、結局は二人とも似たようなことを意味しているのにもかかわらず、どういう訳か平行線の口論になってしまっていることがあります。それは”言いたい欲”がじゃまをしているからではないでしょうか。ある情報を伝えるという目的が、その目的を達成するための手段であるコミュニケーションの最中に、”言いたい欲”に邪魔されて目的が入れ変わってしまいます。議論に勝って友(あるいは客)を失っては意味がありません。

コミュニケーションには面と向かって話す方法、電話で相手の顔や様子がわからずに話す方法、そしてメールや手紙の文章による方法がありますが、どれも一長一短です。昔の小学校では、メールの一番最初に書く受け取り人の名前の後に、相手が年上でも年下でも常に”様” を付けるように教わりましたが、最近数人の友人知人から、”様はやめて下さいよ(笑)!”と書かれてしまいました。”水臭いじゃないですか(笑)。”というわけです。ですがそれは特にへりくだったりしているわけではなくて、昔そのように学校で習って以来の長い習慣で自然にそうなってしまいます。面と向かってお話をする時を基準に考えると、電話の時にはそれより丁寧に話す。そして手紙の時はそれよりもさらに丁寧に書く。学校でほとんど勉強しなかった落ちこぼれがなんでこんなことだけ覚えているのでしょうか。

面と向かって顔を見ながら話す時は、自分の言ったことにたいする相手の反応がうかがえます。表現や説明が不適切だったりしてもし相手が納得のいかない思いをすれば相手の様子でそれが何となく分かります。だからすぐに謝まるなりフォローをするなりできますが、これが電話となると相手の顔が見えないので、場合によってはまずいことを言ってしまったのに気がつかないなどということもあります。そこで電話の場合は面と向かって話す時よりも丁寧に話した方がいいというものです。さらに手紙の時には受取人に差出人の口調や思い、雰囲気さえ分かりません。本当に伝えたいことをその雰囲気や気持ちまで文章で伝えようとすると大変な文章の量になり、細心の注意が必要になり、文法などの文章の完成度の問題も出てきます。もし人に何かを伝えようとする時に、仮にそれが話せば簡単なメッセージだとしてもそれを文章にしようとすると大変苦労するのはそのためです。

インターネットの普及で知らない人同士が簡単につながるようになりましたが、トラブルも多発しているようです。ひょっとしたら最近の若い人達の間ではそれらの点の考慮が十分ではないのかもしれません。昔の小学校で習った、手紙の最初の名前には様を付けるというのは、知り合いや友人関係の間では水臭いと思う人も多いのかもしれませんが、親しき仲にも礼儀ありかもしれません。でも実際には面と向かって話している時でも本当は要注意です。時と場合によりますが、お互いに勘違いしていて、思ったことが全然伝わっていないということもよくあります。日本人同士の面と向かった日本語でのコミュニケーションですらそうですから、例えばそれが英語によるドイツ人とのコミュニケーションとかになると、果たして一体どの位正確に思ったことを伝えられるのでしょうか。

以前面白いTV番組を見たことがあります。お猿さんの集団の中のボス格の猿に、猿の着ぐるみを着た人間が近づいていく実験でした。最初は怒った顔、次には笑った顔、最後には悲しそうな顔のお面をつけていました。つまり近づかれる猿にとっては集団の猿以外の見知らぬ猿が、3種類の違った表情で順番に接近してくることになります(中が人間なので猿にとっては元々怪しいでしょが)。怒った顔のお猿さんのお面をつけて近づこうとした時は猿がすぐに”キー、キー” と叫んで敵対的行動に出ました。そして悲しい顔をしたお面だとほとんど無視。笑った顔も似たようなものでした。表情が相手に与える印象が大変大きいことが良く分かる実験でした。

人間の場合でも全く同じことがいえないでしょうか。険しい表情で向かえば相手もどうしてもそれに身構えてしまいますし、微笑んで近づけば微笑が帰ってくる可能性が高く、仮に微笑が帰ってこない場合でも最低でも無表情は期待できます。険しい表情で敵を作りやすくするのがいいのか、微笑んで見方を作りやすくするのが良いのか。どちらがいいのかの答えは簡単だと思います。より多く微笑んでより多くの味方を作った方が楽しい人生を送れると思います。大事なコミュニケーションの最中に自分の顔がどうなっているかをその都度考えてみたいと思います。何人もの賢者はそれを鏡の法則とか、投げたものが帰ってくる法則と表していますが、全くその通りだと思います。

コミュニケーションの際に、情報というのは出せば出すほどいい効果が現れると思います。情報があふれている現在は情報の過密状態なのでその情報をキャッチしてもらえるかどうかは別として、情報がなければ思いは伝わりません。種をまかなければ芽は決して出ません。種をまいたからといって芽が出るとは限りませんが、種をまかなければ絶対に出ないのと同じです。例えば困っている時や苦しい時、人は普通その情報を隠す傾向にあるようです。多分恥ずかしいいと思うからでしょうが、実際には自分が恥ずかしいと思うほど人は気にしていないものですし、その情報が伝わると助けを出してもらえる可能性が出てきます。でもその情報が伝わらなければ助けが出てくる可能性はゼロです。反対にいいことの情報も、自慢にならないように気をつけて単なる情報として出せば、そこから相乗効果が出てくる可能性も生まれます。

自慢にならないように気をつけた方がいい理由は、悲しいかな人間には人を羨む気持ちがあるので、自慢というものには普通いい反応は期待できません。ところで最近情報という漢字は、青い心(つまり新鮮な心)が幸せを返すと書くように思えてきました。新鮮な心で情報を取り扱えば幸せが返ってくるのではないでしょうか?漢字は日本で独自にできたものもあるでしょうが、オリジナルは3500年前位頃から中国で作られ始めたそうです。それは天下の大聖人達の誰もが誕生する前。中国はすごいものを作ってくれました。夢が叶う時の叶うは、十回口にしていると叶う、と書くそうですし、信じ(させ)る者が儲かり、忙しいという字は心を亡くすと書くといいます。

ここ最近スマホやアイフォーンでメールのやり取りやインターネットのアクセスも自由自在ですが、そういう機器の影響で生活スタイルというか、生活の姿勢が少し変わってきてしまったような気がします。以前は人前で携帯電話の受信を受けるのは目の前にいる相手に失礼でしたが、今ではわりと気楽に受けてしまう傾向にあります。数人で集まっている時も、その中の誰か(ひどい時は数人)がメールの(? あるいはフェースブックの?笑)チェックをしている姿を頻繁に見かけます。つまり皆が納得済みでやっていることのようです。私の親友のイタリア人などは、私と二人きりで一緒に話している時でもそれを頻繁にするので、それは失礼だといって訴えると笑ってごまかされてしまいます。アメリカでは名刺交換の変わりにフェースブックを利用するシーンもあるそうです。

世界中のマネージャー達もアイフォーンやスマホを使ってミーティングの最中でも入ってくる情報をチェックして返事まで書いているようです。でもそれは本当に正解でしょうか。過去と将来のことを考えても意味が無く、今現在のことだけを考えるのが良いのと同じように、今現在目の前にいる人を大事にする方が良くないでしょうか。その理由もごく簡単。誰かと話し合っている時に何かの連絡が入ってくるとします。その連絡の発信者は、受信者が現在どういう状況下にいるのか分かりません。つまり、今すぐに答えても後で答えても相手に与える印象の差はほとんど無く、しかも時差のごまかしさえ利きます。ところが、今目の前で話している人は、相手の姿がそこにあってよく見えます。今その場にしかいません。その場でのごまかしも利きません。親族の交通事故や危篤の知らせなら話は分かりますが、そんなものは頻繁に入るわけでもないのに常に通信機器でスタンバイして応じるということは本当にいいことでしょうか。 

なぜ人は生まれてきたのでしょうか。世界三大聖人によると残念ながらその理由はとくにないそうです。それなのにその理由を探そうとするから人は悩み苦しむのだそうです。でも私はその理由、目的があると思います。それは成長することだと思うのです。それはごく当たり前のことですが、特別な病気などを除いて、生まれてくる生き物で生まれた後に成長しないものはありません。だから全ての生き物は成長するために生まれてきたと思うのです。但しその成長には様々なタイプがあり、成長が大きいもの、小さいもの、早いもの、遅いもの、色々な成長のタイプがあるので、ただ単に成長が早ければ、あるいは大きければよいというものでもないと思います。

自分に合ったマイペースで確実に成長すればいいのではないでしょうか。だから自分はなぜ生まれてきたのかと悩む必要は無く、一日一日、目の前にいる人を大事にして、今、目の前にあることに的を絞って淡々とこなして前進していけばいいだけではないでしょうか。長い人生、時には後退しているように思える時もあるかもしれませんが、少し長いスパンで見て総合的に成長すればいいのだと思います。実際にスポーツでも勉強でも仕事でも何でも、ちょっと頑張って上達すると誰でも大変嬉しいのは、生き物としてその成長を喜ぶ本能からではないでしょうか。
どのように考えたら一番いいのか。結論を一言で言ってしまえば勿論ポジティブスィンキングです。TVの番組で、100歳を越えてもぴんぴんした方々が毎回一人ずつ登場してインタビューする番組がありました(今でもある?)が、そういう100歳以上の方々からアンケートを取ると、その答えに共通点が見られるそうです。皆さん例外なく明るくて前向き、後悔をしないそうです。そして何かよくない結果が出た時の責任を外に求めないようです。天気が悪いから、景気が悪いから、嫁が悪いから...等です。起こったことを素直に受け止められるようです。そこで一度よく考えてみてください。起こる前のことと起こった後のことの両方は、実はどうにもならないことであることに気が付きます。それにもかかわらずに普通その二つのことでついつい悩んでしまいます。

これから起こることに関しては神様にしか分かりません。計画を立ててコツコツと進めたり、打つべき手を打っておくことは勿論必要ですが、それでも結果がどうなるかは神様だけしか分からないことです。ポジティブスィンキングでいい結果が出ることを想像するのもいいでしょうが、その場合もし違った結果になると落胆度が大きくなる可能性もあるのでどんな結果が出るかを考えないのが一番いいのではないでしょうか。悪い結果が出るかもしれないと思い悩むのが一番よくありません。それでは落ちる可能性のある飛行機にも乗れなくなってしまいます。あるいは今乗っている飛行機が落ちたらどうしようかとずっと考え続けているのがいいのでしょうか。そうはいってもケースバイケースでついつい先のことを考えてしまうのは当然のことかもしれませんが、そのことを考えている自分に気が付いたら、すぐに何か別なことに考えをスイッチしてそれに集中してみるのはいかがでしょうか。

さて今度は起こってしまったことですが、これもどうにもなりません。歴史に“もし”は意味のないことだとよく言われまうが、こればかりは神様でさえもどうにもならないほどです。過去は神様にも変えられません。だとしたら、過去のことをどうこう考えても意味がないことです。反省の材料にして、将来似たケースが出た時にそれを活用するというのなら分かりますが、どういう結果が出てくるかの想像と同じように、なるべくそのことを考えずに少しでも早く忘れるのが一番ではないでしょうか。反省はOKですが、後悔はNGです。何か思い通りの結果がでなくても、それをいつまでも悔やんで後悔しても一番損をするのはその本人自身です。さらにはそのことで周りにも迷惑をかけます。これほど無意味なことはありません。さらにもっとよくないのはその責任を外に求めてしまうことではないでしょうか。つまり、過去、現在、未来の内、過去は神様でもどうにもなりません。そして未来は神様にしか分かりません。さてそれではたった一つ残った自分(人間)にもどうにかなるのは何でしょうか?そうなんです、今現在だけなんです。つまり今現在のことを精一杯考えて行動するしかないのです。

その今現在についても実はものごと全て見方次第、考え方次第です。人はみなそれぞれが違った物差しを持っています。だからこそいざこざも起こります。出た結果を良いと思うのも自分自身。まあまあと評価するのも自分。そして悪いと判断するのも自分です。物の色というのは、そのもの自体の色ではなく、そこに当たる光によって始めて色が表されるそうです。日中にみるものの色と、同じものを夕日で見るのでは色が違います。サングラスをかければさらに違う色になり、光がなければ色も何もありません。見方、考え方も同じように、人それぞれで違いますが、結局は自分自身で色々と変えられるのです。出た結果をポジティブにみて明るくなるのか、ネガティブにみて暗くなってしまうのか。お日様が出るといい天気、そして雨が降ると悪い天気と普通はいいますが、本当にそうでしょうか。植物にとっては大事な食事となる雨はいい天気です。植物なしの地球はあり得ませんから、そういう意味では人間にとっても雨も本当はいい天気ではないでしょうか。

自分の物差しで物事を計る、つまり物事をどうとらえるかは自分が勝手に決めることなので、何かをする時にそれをできるかできないのかと決めるのも自分です。もし何かをできないと思う時は自分で勝手に壁を作ってしまっていないでしょうか?過去の数多くの聖人、偉人たちも、自分が思い描くこと、思い続けること、言い続けることが実現につながると断言しています。だから何かを達成したい時は、できないと思って自分で勝手に自分の前に乗り越えられないような幻想の壁を作るのではなくて、計画を立てたら過去と未来を考えずに一日一日に集中して進んでいくことが大事ではないでしょうか。

お釈迦様も、色をつける(どう評価するか)のは自分自身であるといわれたそうです。出た結果を悪く取らずに素直に受け止める。そして必要ならそれを将来に役立てる。悩みとは、欲があるから現れるものですから、欲をなくせば悩みもなくなるわけです。例えば身長が低いとか、あるいは逆に大き過ぎるとか、頭髪が薄いとか、美人でないとかいろいろとありますが、その辺のことはまあ世の中ある程度似たような評価が出るかもしれませんが、それでもそれを受け止めてしまって、背が高くなりたいとか、低くなりたいとか、ふさふさな頭髪が欲しいとか、美人になりたいとかの欲をなくせば、つまりそれに不満を持たなければ悩みもなくなるわけです。よく考えてみればそれらは普通変えることができません。変えることができないことを変えたいと望む欲は意味がありませんし、意味のない欲で悩むのもこれまた意味がありません。だとしたら最初から欲せず悩まずすればいいのではないでしょうか。

お釈迦様は約束をしない方がいいといったそうです。約束というのは将来のこと。そして将来は何が起こるかわかりません。つまり約束をすればするほど縛られてしまうことになります。約束は果たせて当たり前でそれ以上はありません。つまりどんなに頑張ってMax.の最大限で約束が実行できて普通、ところがそれができないと嘘つきになってしまいます。何が起こるか分からない将来の出来事に対して今の時点で決めてしまえば守れない可能性が出てくる方が、守れる可能性よりはるかに大きいことになります。さすがお釈迦様ですが、約束や有言はそういった理由で本当はリスクがかなり高いのです。だから約束をする時は精一杯余裕を持たせることが大切ではないでしょうか。

有言実行はいいことですが、無言実行は楽です。無言無実行はなにもないとして残りの有言無実行は単なる嘘つきとなってしまうので決してしてはいけないことです。誰でもついつい人間はその場その場のかっこを良くするために、自分のできる最大限に近い方のことを言ってしまいます。でも本当は最小限くらいを言った方がいいのです。例えばどこか人が待っている所に向かう時に、余裕を持たせた時間を伝えるということがなかなかできません。1時間くらいで行ける所の場合、人が待っているから長く待たせ(る印象を与え)ては悪いと思って、よくて1時間、へたをするとついつい50分くらいとか言ってしまわないでしょうか。1,5時間と言える人はめったにいないと思いますが、1,5時間と言っておいて1時間で着ければ好印象を与えられます。1時間でいける所に1時間で行けるのは無限のようにある可能性のうちの一つでしかも最大限です。最小限の行けないとの間には、1時間10分、1時間20分、1時間30分...等、いろいろとありますが、1時間が一番難しいわけです。

究極の方法があります。何か悪い結果が出てしまった時などに、その責任を全て自分に求めると非常に楽になって丸く収まり他の人とのいざこざも出ません。ことが思った通りに進まなかった時、それを全て自分のいたらなさのせいにしてみてください。
さて次に運動、身体の動かし方に関してもやはり文明の発達の短所の方が悪い影響で出てきてしまっていると思えます。というと科学の発達が悪い犯人のように思えてしまいますが勿論そうではなくて悪いのは文明の利器にあぐらをかいてしまった人間の方です。動く手段である乗り物の登場がその一番大きな理由ですが、電車や車や飛行機などの登場は、人間の移動をとても早く楽にしてくれました。でもその代わりにそれ以前まで常に歩き続けてきた人間を歩かなくしてしまいました。乗り物の誕生はわずかこの数百年のことです。それ以前の数百万年もの間ずっと歩き続けてきた人間が歩かなくなってしまったのです。これは人間にとっては大変大きな変化だといえます。

先にも出ましたが、人類の最初の祖先は400万年以上も前のアフリカのアルディーとかになるそうです。お猿さんたちは当時からその後もずっと木に登り続けて移動に手も使い続けてきたのでいまだに手の力が大変に強い代わりに足腰が人間と比べると大変ひ弱です。そして人間はその頃から2本足を使って歩き始め、歩き続けてきました。つまり何百万年もの間に歩き続けた結果として現在の大きくて強い足腰が出来上がっていえるといえます。猿から人間への進化を1コマ漫画のように表した絵を時々見ますが、一番左端に猿らしきものが描かれていて、一番右端に人間らしきものがいます。そしてその中間に何種類かのご先祖たちが表されて、左から右に行くにしたがって丸い背中がまっすぐになると同時に身長が伸びていきますが、あれが数百万年もの間の人間の進化を大変良く表していないでしょうか。

アルディーの頃の身体は非常に小さかったそうですが、歩き続けたことによって段々と身長も伸びたのではないでしょうか。つまり、ずっと歩き続けてきた人間にとっては歩く運動が一番良い運動であるはずです。移動にも、餌を追うにも探すにも常に歩き続けてきたからです。人間の作り出した様々な乗り物は、この歩くという人間にとって一番大事な運動をごく自然に、そして極端に減らしてしまいました。乗り物の長所には計り知れない大きなものがありますが、その代わりに人間の身体にとって一番大切な動きである歩きという運動を極端に減らして足腰を使わなくさせてしまいました。

筋肉でも何でも使わなければ衰えてしまうのは当たり前です。怪我をしてギブスなどをするとよく分かりますが、僅か数日の間動かさないだけで人間の身体はリハビリが必要になってしまいます。動かさないということに対して身体は大変弱い仕組みにできています。ドアとちょうつがいではないのですから、動かすためにあるものが動かされなければ動かなくなってしまいます。いえ、ドアのちょうつがいでさえ長い間動かさなければ錆びて動かなくなってしまいます。車でもそうですが、毎日適度に使っている方が、長い間置いておくより調子がよくなります。動くようにできているものは動かさなくては駄目なのです。

人間の心臓は他の全ての動物たちと比べてその位置がかなり高いところにあり、そこから動脈で全身に血液を送ります。はるか下の方の足の先まで血液を送る時は重力の関係もあって楽ですが、その後今度は強力な重力に逆らって静脈で心臓まで血液を送り返さなければなりません。静脈には所々に静脈弁がついていて血の逆流を防いでくれていますが、それはまさに重力に逆らって血液を上方の心臓に送り返すための進化の結果ではないでしょうか。もし人間の身体に合った正しい動きを行っていると、筋肉が動くので太くなったり細くなったりしますが、その力で静脈弁で仕切られた各血管の一部分、一部分がポンプのようになって血液を心臓に戻す助けをおこなっているそうです。だから寝ている時が身体が一番楽なわけです。

人間の姿勢で一番楽な順からいえば寝ている時、そして座っている時、一番大変なのが立っている時ですが、それは重力の存在があるからです。病気になったら立っていられずに横になるわけですが、当然のことながらそれが一番楽だからです。物が落っこちてしまうという強力な重力は本来大変な力なのです。身体が少しの高さから落ちただけで痛いですが、あの力は24時間ずっと身体にかかっています。その力は静脈の中を通る血液にも働いています。だから類人から人類への進化の段階で静脈には開閉弁ができてきたと思われるのです。実際に静脈弁は内臓や頭部には見られず、四肢によく発達しているそうです。普段下に向かってたれている手にとっても、寝ている時などを除けばやはり下に向きっぱなしの足にとっても静脈弁もポンプの働きも大変大事なものではないでしょうか。

ということは、よく歩く人とそうでない人では血液の循環の具合も違ってきてしまうことになります。血液の滞りのない循環が健康に非常に大切で、病気の治癒にも大事であることは、血液が栄養も免疫も運ぶことからいうまでもないことだと思いまが、だからこそそれがスムーズに行われているかどうかが健康に大きく影響するわけです。最近水分を取る、つまり水を多く飲むのが健康に良いとされてミネラルウォーターのメーカーが売上を伸ばしているようですが、水を飲めばそれだけ体の中で水の循環が行われることになります。

身体の中の水、あるいは血液の循環だけではなく、この世の中では循環が欠かせないようにできているみたいです。例えば水を動かさずにじっと置いておくとよどんできて汚くなっていきますが、フィルターポンプなどを使って水を循環させておくと、つまり動かし続けているときれいに保たれるのはアクアリウムの業界では知れ渡った事実です。しかもその循環、流れが多くて速いほど効果が大きくなります。人間の身体も、血液を常に動かし続けるだけでなく、その循環がスムーズであればあるほど血液によって栄養や免疫が滞りなく運ばれるわけですから身体にいいわけです。

血の循環だけではなくて、振動も身体には大事であることが分かってきています。骨折の後の骨のつき具合も、ある特定の振動を与えている方が、安静にしているよりも直りが早いそうです。あの大リーガーの松井選手が骨折した時もその治療方法が取られて直りが早かったそうです。そういえば宇宙飛行士は地面とのコンタクトもなく重力もないので地球に帰ってくると骨が弱くなってしまっているそうです。それは水泳に関しても言えることで、水泳の唯一の欠点は地面とのコンタクトがなくて骨が鍛えられないことです。

腰痛のある人がウォーキングを始めてしばらくすると腰痛が直ってしまうというお話しを良く聞きますが、それはごく当たり前のことのように思えます。腰痛が出たらウォーキングをして直ったというのは間違った表現で、本当のところは普段歩くという人間の身体にとって必要不可欠な運動をしていないから腰痛などの身体の痛みが出るというのが正しい表現ではないでしょうか。車での移動が当たり前のようになってしまい、本来なら歩くはずの距離でもつい車を使ってしまっていないでしょうか。人間の足腰を見れば、それが座るためにできたものではなくて歩くためにできたものであるのは一目瞭然です。椅子は座るためにできていますが、人間の身体は座るためにできているわけではありません。人間の身体は動くためにできています。座るのは休むためだけです。

腰痛に限らずに四十肩でもなんでも、体中様々な部分の痛みの原因のほとんどは運動不足によるものからではないでしょうか。手も勿論動かすためにできていています。前方、横、上下、そして一部を除いた後方、いろいろな方行に動かせます。そのようにあらゆる方向に動かせるように関節も筋肉も筋も作られています。それをあらゆる方向に動かさずに一日中座ったままでパソコンのキーボードだけ打っていたら衰えてしまうのは当然と思われます。机に対して椅子の高さが少し低いと肘が机の上に乗ってしまって肩がこるのはご存知でしょうか。それが不自然だからです。停滞がよどみを生むのは水だけではなく、組織も人間の身体も同じのようです。毎日正しい運動をする、例えば歩く、ウォーキングをする、ラジオ体操をする、というのは身体にいいのではなくて、必要不可欠なものなのです。ドイツ語には、“Wer lastet, der rostet”という、休むものは錆びるという言葉があるくらいです。

鳥は飛ぶために手(羽)が発達していて足が衰えているので長い距離を歩けない代わりに空が飛べます。魚は泳ぐために流線型などをしていて色々な鰭がありますが陸に上がれません。モグラは土の中を穴を掘って進みやすいように手の力が強くて爪も強いですが、その代わりに必要のない眼が衰えています。元ケンブリッジ大学教授、車椅子のホーキング博士は、人間は将来、環境の変化についていけなくなって自らの身体に遺伝子工学を使わざるを得なくなるだろうと言ったそうですが、それが大きな環境の変化についていけない身体を変えるためならまだ分かりますが、退化してしまう身体を救うためでないことを願っています。

歩くために身体が出来上がっているのだから、身体を健康に保ちたければ毎日頻繁に歩けばよいわけです。どのくらい歩けばよいのかは実は自分の身体が教えてくれます。どのくらい休めば良いのかも教えてくれますが、そちらの方は腰痛などの痛みとなって出るので時間もかかってリカバリーが大変ですが、毎日歩くようにして歩きすぎにはすぐにサインを出してくれます。でも最初は無理をせずに週に1回でも2回でも、距離は1kmでも2kmでもいいのです。大きな個人差がありますが、徐々に回数と距離を増やしていって毎日3、4km以上歩くのが理想ではないでしょうか。回数や距離数が多くなってくると疲労や筋肉痛でサインを出してくれるので距離や回数を減らします。でも人間の身体は面白いもので、最初は僅かな回数、僅かな距離で疲労や筋肉痛のサインが出てきますが、それが段々と身体が慣れていくとともに回数も距離も伸びてきます。それでもその都度サインを無視せずに続けます。

一番いけないのは始める時についつい頑張り過ぎてしまうことです。ついつい頑張ってしまうと回数も多過ぎ、距離も多すぎ、そしてそれが飽き、三日坊主につながります。マイペースかあるいはそれよりもさらに少な目ぐらいで毎回やめておくと次が楽しみになって続けやすくなります。動かすべき身体を動かさなければ動かなくなってきたり、使いすぎればつったり腫れたりと、身体が色々なサインを出してくるので、それに耳を傾けることが大事ではないでしょうか。運動をしなければ体がなまり、運動をし過ぎれば疲れるなどするので、素直にその声に従って身体を動かしましょう。

ちなみに私自身はウォーキングではなくてジョギングをしていますが、それはジョギングの方が短い距離と時間で効率的に身体が温まるからですが、本来はジョギングよりもウォーキングの方がいいはずです。人間はずっと走り続けてきたのではなくて、歩き続けてきたからです。ジョギングだと膝も痛めますがウォーキングの場合はそんなこともありません。時間のない人にはウォーキングよりもジョギングの方がいいということになってしまうかもしれませんが、本当はウォーキングの方がお勧めです。そしてそのウォーキングも、チンタラと歩くのではなくてなるべく大またで早く歩きます。それによって身体もよく温まり、血液の循環も良くなります。血液の循環を良くする、汗をかいて身体の水の循環をする。それが大事ではないでしょうか。

ところで全身を動かすラジオ体操ですが、長い年月の間に数々の改善などもあってあれは人間の身体にとってかなり考えられた究極の動きだそうです。元々はアメリカから来たものだそうですが、国が奨励して全国に広まり、ラジオ体操を毎朝行うだけで統計的に病欠が減るそうです。そこで多くの企業に取り入れられています。大きな企業ともなると総務には総務の専門化が集っていますので、自然とその方面を勉強してラジオ体操を行うと病欠が減るので採用して毎朝会社で行うということになるようです。ユーチューブなどで第一も第二もすぐに出てきますので、両方を毎日行うことをお勧めいたします。欲を言えば朝と午後の2回行いたいところです。

長所には必ずその裏に短所あり。楽あれば必ずその裏に苦あり。その逆もしかり。楽ばかりしていたらしっぺ返しは必ずやってきます。文明の利器で世の中が便利になったからといってそれにあぐらをかいて頼りきってしまってはおかしなことになってしまうのです。若い時の苦労は買ってでもしろとはいいますが、正にその通りであります。いえ、若くないからといって苦労が不要になるわけではないと思います。むしろ“若い時の”という部分は不要だと思います。楽をすれば衰える。そういう意味では苦というか、身体を鍛えるということは健康にとって大切なことではないでしょうか。

ところで以前、地図が読めない女、話を聞かない男という本がヒットしたと思いますが、面白いTV番組を見たことがあります。方向音痴と思われる人達と、そうでない人達の頭に目の動きが見れる特殊なセンサーの付いたヘルメットをかぶせて、その人達が移動している最中に何を見ているかを調べることができる実験です。 方向音痴でない人達は、ビルなどの動かない大きなものを目印として見ているのですが、方向音痴の人達は皆さん面白いように車などの動くものばかりを見ています。道を覚えなければいけない時に、どうして動くものばかりを見るのか私にはその思考回路が理解できませんでしたが、実はうちの奥さんは後者のようです。 

そしてうちの奥さんを見ていると、どうやらあのTVはわざと面白おかしく作ったわけでもなんでもなくて本物だと思いました。なぜならうちの奥さんときたら、何度同じ道を通っても一向に覚えません。 覚えるつもりがないのか、動くものばかり見ているからなのか。永遠のペーパードライバーで運転に夢中で周りを見ることなどできないのか。多分それら全てかもしれません。注意深く彼女の運転を見つめていると、確かに運転に一生懸命で景色やビルなどの目印を見ている余裕はなさそう。前方に対するその視野の角度はわずか30度位に思えてきてしまいます。 

それも歯と食事、身体のつくりと歩く運動などと同じように進化の結果でしょうか。太古の昔から男は家族のために外に出てひたすら食べるものを探して歩かなければなければなりませんでした。誰が何と言おうと、とにかくただひたすらに食べ物を探しにです。でないと家族が飢えてしまいます。それで男は話を聞かなくなり、地理に詳しくなった。男がもし方向音痴だと、家族が待つ元に二度と戻れません。(中には例外もいるでしょうが)その点女性は留守を預かる身。よくおしゃべりをするし、家族みんなの話も聞く。その代わりに地理に明るくなる必要がない。それにしても鮭や渡り鳥の地理の明るさには恐ろしいほどのものがあります。