世の中人間が一人で生きていけないのは当たり前のことですが、その場合何が大事でしょうか。コミュニケーションではないでしょうか。コミュニケーションとは人と人がつながること。元々生き物はその両親がつながって出てきたものですが、生き物にとってつながりとは切っても切れないものです。コミュニケーションとは、人間が生きていくのに絶対に欠くことのできない空気、水、食べ物などのレベルを除けばその次位にくる大事なものではないでしょうか。ロビンソン クルーソーとかのお話しならまた別ですが、一人っきりで生きている人間は普通いません。つまり誰でも必ず誰かとお話しや電話、お手紙、メールなどでコミュニケーションをします。障害があってお話ができない人も何かの方法でコミュニケーションをしています。人間だけではなくて動物もします。一部の学者さんの間では植物もするといわれています。つまりそれ程大事なコミュニケーションも考え方の一つと考えて最後に取り上げてみたいと思います。

コミュニケーションで問題となるのは意思の疎通の質の高さではないでしょうか。英語などの外国語での会話に限らず、同じ日本人同士の間での日本語でのやりとりでも世代や育った環境、家庭、教育、経験や体験、本人の好みや興味、趣味などの違いがあるので、一人の人間が思ったことを別の相手に伝えてそれを完璧に分かってもらうというのは実は至難の技です。まずは情報の発信者がその思いを本当に100% 正しく表現できたかどうかも分からないことから始まり、仮に表現(送信)が100% であったとしても今度は相手がそれを聞き間違い、読み間違いなどなく100% 正しく受信してくれたかどうか分かりませんし、もし正しく受信してもらえても今度はそれを思った通りに理解してくれたかどうか分かりません。言った、言わない、聞いた、聞かないのトラブルは世の常です。 

だから誤解というものが多発するのでしょうが、それを埋め合わせるにはそれだけ多く話し合うしかありません。”話せば分かる”とはよくいったものです。そこで忘れてならないのは、人間には誰にでも”言いたい欲”があるという点です。そしてその”言いたい欲”がスムーズなコミュニケーションを妨げる時があります。ある二人の間で話されている内容を良く聞いてみると、結局は二人とも似たようなことを意味しているのにもかかわらず、どういう訳か平行線の口論になってしまっていることがあります。それは”言いたい欲”がじゃまをしているからではないでしょうか。ある情報を伝えるという目的が、その目的を達成するための手段であるコミュニケーションの最中に、”言いたい欲”に邪魔されて目的が入れ変わってしまいます。議論に勝って友(あるいは客)を失っては意味がありません。

コミュニケーションには面と向かって話す方法、電話で相手の顔や様子がわからずに話す方法、そしてメールや手紙の文章による方法がありますが、どれも一長一短です。昔の小学校では、メールの一番最初に書く受け取り人の名前の後に、相手が年上でも年下でも常に”様” を付けるように教わりましたが、最近数人の友人知人から、”様はやめて下さいよ(笑)!”と書かれてしまいました。”水臭いじゃないですか(笑)。”というわけです。ですがそれは特にへりくだったりしているわけではなくて、昔そのように学校で習って以来の長い習慣で自然にそうなってしまいます。面と向かってお話をする時を基準に考えると、電話の時にはそれより丁寧に話す。そして手紙の時はそれよりもさらに丁寧に書く。学校でほとんど勉強しなかった落ちこぼれがなんでこんなことだけ覚えているのでしょうか。

面と向かって顔を見ながら話す時は、自分の言ったことにたいする相手の反応がうかがえます。表現や説明が不適切だったりしてもし相手が納得のいかない思いをすれば相手の様子でそれが何となく分かります。だからすぐに謝まるなりフォローをするなりできますが、これが電話となると相手の顔が見えないので、場合によってはまずいことを言ってしまったのに気がつかないなどということもあります。そこで電話の場合は面と向かって話す時よりも丁寧に話した方がいいというものです。さらに手紙の時には受取人に差出人の口調や思い、雰囲気さえ分かりません。本当に伝えたいことをその雰囲気や気持ちまで文章で伝えようとすると大変な文章の量になり、細心の注意が必要になり、文法などの文章の完成度の問題も出てきます。もし人に何かを伝えようとする時に、仮にそれが話せば簡単なメッセージだとしてもそれを文章にしようとすると大変苦労するのはそのためです。

インターネットの普及で知らない人同士が簡単につながるようになりましたが、トラブルも多発しているようです。ひょっとしたら最近の若い人達の間ではそれらの点の考慮が十分ではないのかもしれません。昔の小学校で習った、手紙の最初の名前には様を付けるというのは、知り合いや友人関係の間では水臭いと思う人も多いのかもしれませんが、親しき仲にも礼儀ありかもしれません。でも実際には面と向かって話している時でも本当は要注意です。時と場合によりますが、お互いに勘違いしていて、思ったことが全然伝わっていないということもよくあります。日本人同士の面と向かった日本語でのコミュニケーションですらそうですから、例えばそれが英語によるドイツ人とのコミュニケーションとかになると、果たして一体どの位正確に思ったことを伝えられるのでしょうか。

以前面白いTV番組を見たことがあります。お猿さんの集団の中のボス格の猿に、猿の着ぐるみを着た人間が近づいていく実験でした。最初は怒った顔、次には笑った顔、最後には悲しそうな顔のお面をつけていました。つまり近づかれる猿にとっては集団の猿以外の見知らぬ猿が、3種類の違った表情で順番に接近してくることになります(中が人間なので猿にとっては元々怪しいでしょが)。怒った顔のお猿さんのお面をつけて近づこうとした時は猿がすぐに”キー、キー” と叫んで敵対的行動に出ました。そして悲しい顔をしたお面だとほとんど無視。笑った顔も似たようなものでした。表情が相手に与える印象が大変大きいことが良く分かる実験でした。

人間の場合でも全く同じことがいえないでしょうか。険しい表情で向かえば相手もどうしてもそれに身構えてしまいますし、微笑んで近づけば微笑が帰ってくる可能性が高く、仮に微笑が帰ってこない場合でも最低でも無表情は期待できます。険しい表情で敵を作りやすくするのがいいのか、微笑んで見方を作りやすくするのが良いのか。どちらがいいのかの答えは簡単だと思います。より多く微笑んでより多くの味方を作った方が楽しい人生を送れると思います。大事なコミュニケーションの最中に自分の顔がどうなっているかをその都度考えてみたいと思います。何人もの賢者はそれを鏡の法則とか、投げたものが帰ってくる法則と表していますが、全くその通りだと思います。

コミュニケーションの際に、情報というのは出せば出すほどいい効果が現れると思います。情報があふれている現在は情報の過密状態なのでその情報をキャッチしてもらえるかどうかは別として、情報がなければ思いは伝わりません。種をまかなければ芽は決して出ません。種をまいたからといって芽が出るとは限りませんが、種をまかなければ絶対に出ないのと同じです。例えば困っている時や苦しい時、人は普通その情報を隠す傾向にあるようです。多分恥ずかしいいと思うからでしょうが、実際には自分が恥ずかしいと思うほど人は気にしていないものですし、その情報が伝わると助けを出してもらえる可能性が出てきます。でもその情報が伝わらなければ助けが出てくる可能性はゼロです。反対にいいことの情報も、自慢にならないように気をつけて単なる情報として出せば、そこから相乗効果が出てくる可能性も生まれます。

自慢にならないように気をつけた方がいい理由は、悲しいかな人間には人を羨む気持ちがあるので、自慢というものには普通いい反応は期待できません。ところで最近情報という漢字は、青い心(つまり新鮮な心)が幸せを返すと書くように思えてきました。新鮮な心で情報を取り扱えば幸せが返ってくるのではないでしょうか?漢字は日本で独自にできたものもあるでしょうが、オリジナルは3500年前位頃から中国で作られ始めたそうです。それは天下の大聖人達の誰もが誕生する前。中国はすごいものを作ってくれました。夢が叶う時の叶うは、十回口にしていると叶う、と書くそうですし、信じ(させ)る者が儲かり、忙しいという字は心を亡くすと書くといいます。

ここ最近スマホやアイフォーンでメールのやり取りやインターネットのアクセスも自由自在ですが、そういう機器の影響で生活スタイルというか、生活の姿勢が少し変わってきてしまったような気がします。以前は人前で携帯電話の受信を受けるのは目の前にいる相手に失礼でしたが、今ではわりと気楽に受けてしまう傾向にあります。数人で集まっている時も、その中の誰か(ひどい時は数人)がメールの(? あるいはフェースブックの?笑)チェックをしている姿を頻繁に見かけます。つまり皆が納得済みでやっていることのようです。私の親友のイタリア人などは、私と二人きりで一緒に話している時でもそれを頻繁にするので、それは失礼だといって訴えると笑ってごまかされてしまいます。アメリカでは名刺交換の変わりにフェースブックを利用するシーンもあるそうです。

世界中のマネージャー達もアイフォーンやスマホを使ってミーティングの最中でも入ってくる情報をチェックして返事まで書いているようです。でもそれは本当に正解でしょうか。過去と将来のことを考えても意味が無く、今現在のことだけを考えるのが良いのと同じように、今現在目の前にいる人を大事にする方が良くないでしょうか。その理由もごく簡単。誰かと話し合っている時に何かの連絡が入ってくるとします。その連絡の発信者は、受信者が現在どういう状況下にいるのか分かりません。つまり、今すぐに答えても後で答えても相手に与える印象の差はほとんど無く、しかも時差のごまかしさえ利きます。ところが、今目の前で話している人は、相手の姿がそこにあってよく見えます。今その場にしかいません。その場でのごまかしも利きません。親族の交通事故や危篤の知らせなら話は分かりますが、そんなものは頻繁に入るわけでもないのに常に通信機器でスタンバイして応じるということは本当にいいことでしょうか。 

なぜ人は生まれてきたのでしょうか。世界三大聖人によると残念ながらその理由はとくにないそうです。それなのにその理由を探そうとするから人は悩み苦しむのだそうです。でも私はその理由、目的があると思います。それは成長することだと思うのです。それはごく当たり前のことですが、特別な病気などを除いて、生まれてくる生き物で生まれた後に成長しないものはありません。だから全ての生き物は成長するために生まれてきたと思うのです。但しその成長には様々なタイプがあり、成長が大きいもの、小さいもの、早いもの、遅いもの、色々な成長のタイプがあるので、ただ単に成長が早ければ、あるいは大きければよいというものでもないと思います。

自分に合ったマイペースで確実に成長すればいいのではないでしょうか。だから自分はなぜ生まれてきたのかと悩む必要は無く、一日一日、目の前にいる人を大事にして、今、目の前にあることに的を絞って淡々とこなして前進していけばいいだけではないでしょうか。長い人生、時には後退しているように思える時もあるかもしれませんが、少し長いスパンで見て総合的に成長すればいいのだと思います。実際にスポーツでも勉強でも仕事でも何でも、ちょっと頑張って上達すると誰でも大変嬉しいのは、生き物としてその成長を喜ぶ本能からではないでしょうか。