どのように考えたら一番いいのか。結論を一言で言ってしまえば勿論ポジティブスィンキングです。TVの番組で、100歳を越えてもぴんぴんした方々が毎回一人ずつ登場してインタビューする番組がありました(今でもある?)が、そういう100歳以上の方々からアンケートを取ると、その答えに共通点が見られるそうです。皆さん例外なく明るくて前向き、後悔をしないそうです。そして何かよくない結果が出た時の責任を外に求めないようです。天気が悪いから、景気が悪いから、嫁が悪いから...等です。起こったことを素直に受け止められるようです。そこで一度よく考えてみてください。起こる前のことと起こった後のことの両方は、実はどうにもならないことであることに気が付きます。それにもかかわらずに普通その二つのことでついつい悩んでしまいます。

これから起こることに関しては神様にしか分かりません。計画を立ててコツコツと進めたり、打つべき手を打っておくことは勿論必要ですが、それでも結果がどうなるかは神様だけしか分からないことです。ポジティブスィンキングでいい結果が出ることを想像するのもいいでしょうが、その場合もし違った結果になると落胆度が大きくなる可能性もあるのでどんな結果が出るかを考えないのが一番いいのではないでしょうか。悪い結果が出るかもしれないと思い悩むのが一番よくありません。それでは落ちる可能性のある飛行機にも乗れなくなってしまいます。あるいは今乗っている飛行機が落ちたらどうしようかとずっと考え続けているのがいいのでしょうか。そうはいってもケースバイケースでついつい先のことを考えてしまうのは当然のことかもしれませんが、そのことを考えている自分に気が付いたら、すぐに何か別なことに考えをスイッチしてそれに集中してみるのはいかがでしょうか。

さて今度は起こってしまったことですが、これもどうにもなりません。歴史に“もし”は意味のないことだとよく言われまうが、こればかりは神様でさえもどうにもならないほどです。過去は神様にも変えられません。だとしたら、過去のことをどうこう考えても意味がないことです。反省の材料にして、将来似たケースが出た時にそれを活用するというのなら分かりますが、どういう結果が出てくるかの想像と同じように、なるべくそのことを考えずに少しでも早く忘れるのが一番ではないでしょうか。反省はOKですが、後悔はNGです。何か思い通りの結果がでなくても、それをいつまでも悔やんで後悔しても一番損をするのはその本人自身です。さらにはそのことで周りにも迷惑をかけます。これほど無意味なことはありません。さらにもっとよくないのはその責任を外に求めてしまうことではないでしょうか。つまり、過去、現在、未来の内、過去は神様でもどうにもなりません。そして未来は神様にしか分かりません。さてそれではたった一つ残った自分(人間)にもどうにかなるのは何でしょうか?そうなんです、今現在だけなんです。つまり今現在のことを精一杯考えて行動するしかないのです。

その今現在についても実はものごと全て見方次第、考え方次第です。人はみなそれぞれが違った物差しを持っています。だからこそいざこざも起こります。出た結果を良いと思うのも自分自身。まあまあと評価するのも自分。そして悪いと判断するのも自分です。物の色というのは、そのもの自体の色ではなく、そこに当たる光によって始めて色が表されるそうです。日中にみるものの色と、同じものを夕日で見るのでは色が違います。サングラスをかければさらに違う色になり、光がなければ色も何もありません。見方、考え方も同じように、人それぞれで違いますが、結局は自分自身で色々と変えられるのです。出た結果をポジティブにみて明るくなるのか、ネガティブにみて暗くなってしまうのか。お日様が出るといい天気、そして雨が降ると悪い天気と普通はいいますが、本当にそうでしょうか。植物にとっては大事な食事となる雨はいい天気です。植物なしの地球はあり得ませんから、そういう意味では人間にとっても雨も本当はいい天気ではないでしょうか。

自分の物差しで物事を計る、つまり物事をどうとらえるかは自分が勝手に決めることなので、何かをする時にそれをできるかできないのかと決めるのも自分です。もし何かをできないと思う時は自分で勝手に壁を作ってしまっていないでしょうか?過去の数多くの聖人、偉人たちも、自分が思い描くこと、思い続けること、言い続けることが実現につながると断言しています。だから何かを達成したい時は、できないと思って自分で勝手に自分の前に乗り越えられないような幻想の壁を作るのではなくて、計画を立てたら過去と未来を考えずに一日一日に集中して進んでいくことが大事ではないでしょうか。

お釈迦様も、色をつける(どう評価するか)のは自分自身であるといわれたそうです。出た結果を悪く取らずに素直に受け止める。そして必要ならそれを将来に役立てる。悩みとは、欲があるから現れるものですから、欲をなくせば悩みもなくなるわけです。例えば身長が低いとか、あるいは逆に大き過ぎるとか、頭髪が薄いとか、美人でないとかいろいろとありますが、その辺のことはまあ世の中ある程度似たような評価が出るかもしれませんが、それでもそれを受け止めてしまって、背が高くなりたいとか、低くなりたいとか、ふさふさな頭髪が欲しいとか、美人になりたいとかの欲をなくせば、つまりそれに不満を持たなければ悩みもなくなるわけです。よく考えてみればそれらは普通変えることができません。変えることができないことを変えたいと望む欲は意味がありませんし、意味のない欲で悩むのもこれまた意味がありません。だとしたら最初から欲せず悩まずすればいいのではないでしょうか。

お釈迦様は約束をしない方がいいといったそうです。約束というのは将来のこと。そして将来は何が起こるかわかりません。つまり約束をすればするほど縛られてしまうことになります。約束は果たせて当たり前でそれ以上はありません。つまりどんなに頑張ってMax.の最大限で約束が実行できて普通、ところがそれができないと嘘つきになってしまいます。何が起こるか分からない将来の出来事に対して今の時点で決めてしまえば守れない可能性が出てくる方が、守れる可能性よりはるかに大きいことになります。さすがお釈迦様ですが、約束や有言はそういった理由で本当はリスクがかなり高いのです。だから約束をする時は精一杯余裕を持たせることが大切ではないでしょうか。

有言実行はいいことですが、無言実行は楽です。無言無実行はなにもないとして残りの有言無実行は単なる嘘つきとなってしまうので決してしてはいけないことです。誰でもついつい人間はその場その場のかっこを良くするために、自分のできる最大限に近い方のことを言ってしまいます。でも本当は最小限くらいを言った方がいいのです。例えばどこか人が待っている所に向かう時に、余裕を持たせた時間を伝えるということがなかなかできません。1時間くらいで行ける所の場合、人が待っているから長く待たせ(る印象を与え)ては悪いと思って、よくて1時間、へたをするとついつい50分くらいとか言ってしまわないでしょうか。1,5時間と言える人はめったにいないと思いますが、1,5時間と言っておいて1時間で着ければ好印象を与えられます。1時間でいける所に1時間で行けるのは無限のようにある可能性のうちの一つでしかも最大限です。最小限の行けないとの間には、1時間10分、1時間20分、1時間30分...等、いろいろとありますが、1時間が一番難しいわけです。

究極の方法があります。何か悪い結果が出てしまった時などに、その責任を全て自分に求めると非常に楽になって丸く収まり他の人とのいざこざも出ません。ことが思った通りに進まなかった時、それを全て自分のいたらなさのせいにしてみてください。